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俺の親父は二度死ぬ:Anizine(無料記事)

父の日。
俺の父は星一徹のような人で、小学校低学年の頃からよく一緒に野球の練習をした。練習はとにかく厳しくスパルタで、ボールとグローブは硬式を使った。日曜日の午後、俺が楽しい草野球から帰ってくると「キャッチボールしよう」と言う。軟式グローブと軟球をポイッと捨てられ、硬式グローブと硬球を渡される。

詳しいことは今となっては定かでないが、若い頃にどこかの社会人野球のチームで捕手をしていたと聞く。父は小学生の俺に向かって手加減なく矢のような球を投げてくるのだ。硬式をやったことがある人ならわかると思うけれど、あれは石ころを投げ合っているのと大差ない。捕ったときの音を聞かれ、手のひらでなく「網」の部分で捕ったことがわかると怒られる。「網で捕るな」と言われても、数十分もすると手が痛くてたまらない。

家の前の道でボールが見えなくなる時間までキャッチボールをした。今考えるとよく遊んでくれたいい父親だったと思う。自分の娯楽にはほとんど興味のない人で、子どものことばかり考えていたように思う。

父は俺の育ての親である。前任者である生物学上の父親はスポーツとは縁遠い人だったし幼いときに別れていたから俺は父親と野球をすることなどは思いもよらなかった。ある日を境に茶道部から野球部に移籍させられたようなものだ。父はおそらく俺を自分の息子にするためにいろいろなものを買い与えてくれたのだろう。プロ野球選手が使う本格的なグローブやバット、当時の子どもの憧れだった「アストロG」というウィンカーのついた自転車、また高校生になって写真をやりたいと言ったときもカメラマンのように立派な機材を一式揃えてくれた。

「道具が悪いからうまくならないと言うな」とよく言われた。そういう言い訳をしないように必ずいつでも本格的なものを手渡された。その癖が今でも染みついていて自分で何かを買うときには最高のものを手に入れることにしている。教育的な意味もあったのだろうが、父は俺に何かを手渡すときにとてもうれしそうな顔をしていたので、彼なりに「新しい息子」との関係に気を遣ってくれていたのだと感謝している。

中学生の頃だったか、滅多にないことだが父とふたりだけで山下公園の近くまで行ったことがある。市役所か何かに用事があったらしく俺はひとりでクルマの中で待っていた。「すぐに戻るから、運転席に座っていろ」と言われた。数分すると女性の警察官がコツコツと窓を叩く。「運転手さん。ここは駐車場の出口なので、少しクルマを前に出してください」と言われた。俺は運転手じゃないと言うべきなのか、そう言ってしまうと駐車違反か何かが発生してしまうのかがよくわからず、俺はエンジンを掛けて数メートルだけそーっと車を動かした。後ろから「これで大丈夫です。ありがとうございました」と警官の声が聞こえて安心した。

そのあとどこの店だったか忘れたが、ニューグランドの近くのレストランに行ってステーキを食べた。警官との出来事を話すと「そうか。よくやった」と、父はカウボーイの息子が初めて牛の首にロープをかけた時のようにニコニコしてくれた。冷静に考えると俺は警官が見守る中で、初めての無免許運転をしたことになるんだけど、まあそういった「ちょっと悪いこと」は父親と共有すべき種類の思い出なのだろう。

先に書いたとおり、父はニセモノや代替物が嫌いで、その存在すら嫌っていた。ニセモノで満足していると自分もニセモノになってしまうと思っていたようだ。週末になると、とれたての新鮮な魚を買うために近くのスーパーではなくわざわざ逗子の漁港までドライブをした。だから家族で出かけることは多かったのだが、ふたりきりでどこかに行ったのはあの無免許ステーキの日だけだ。とても印象に残っている。

俺が銀座の会社に勤めていた頃、屈強な肉体を持っていた父は癌を患って入院した。いくつかの病院で入退院を繰り返していたが、最後は水道橋の病院だった。見舞いから帰るとき、病室の廊下から東京ドームの屋根が見えた。野球が好きだった父はそれを眺めながら「今年の巨人はどうだ」と言った。3月のプロ野球開幕の直前だったが母親から病状を聞いていたので、残念ながら父が今年のシーズンを観ることはないだろうと知っていた。

4月4日に亡くなった。俺は父の葬式で一度も泣くことはなかった。

人が死ぬことは運命だし、心の準備の時間もあった。長生きした他人と比べても遜色ない濃い人生を父が送ったことも十分わかっていたからだと思う。

入院中の父が東京ドームが見える病院の廊下で、俺が入院費などを援助していることを聞いたようで「ありがとうな」と、帰り際に丁寧なお辞儀をしたことがある。その瞬間、これはダメだと思って急いで病院を出た。会社に戻るタクシーの中でどうやっても涙が止まらず、それは父が死んでしまうこととは関係なくて、キャッチボールをしていた頃の「網で捕るな」と怒鳴っていた強い父はもう戻ってこないのだという、立場の逆転の悲しさだった。

前任者の父親が数年前に亡くなったことは人づてに聞いた。母親が離婚してから一度も会っていないし、俺の人格形成に大きな影響を与えていないので思ったほど心は動かなかった。血は水より濃くないことはわかっていた。

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ワタナベアニ
多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。