ゾンビはお前たちだ。
「ローマ時代に不老不死を研究していた全員が死亡しているという衝撃」
ロバート・ツルッパゲ
どんな人も最後は死ぬわけで。人間というスイッチは、生まれる死ぬ、の、オン/オフしかない。その「パチッ」という2回の音の中間に、泣いたり笑ったり怒ったりしている。
そこに生きる意味なんて考え得ると思う方がおこがましいので、できるだけ多くの「覚醒したイベント」を残すしかないのだと思っている。
親を亡くした子供を描いた映画です、と言われたら典型的な物語が想像できるだろう。でもその典型が、自分の生きている時代の閉塞感、虚無感と離れてしまっていることも事実で、出川哲朗さんぽく言えば、リアルガチで「生きる/死ぬ」という概念はアップデートされているんじゃないか、それを描いている人は少ないんじゃないか、と感じる。
そう。『ウィーアーリトルゾンビーズ』のことだ。
大人が考えている子供の気持ちは全部的外れだ。子供の感覚を捨てるのが大人になることだと思っている人の鈍感暴力はスゴい。映画のレビューを読んでも感じたけど、自分が子供だった頃の気持ちを憶えている大人なら受け取れる世界が、まるで見えていないのだ。
その代わり「広告代理店のやつが作りそうな」「僕の発想はすごいでしょという自己顕示欲」などの言葉が並ぶ。子供の感覚をなくして身につけたモノがそんなクソみたいな下世話な単語か。ゾンビはお前たちだ。ユーアーアダルトゾンビーズだ。
数日前、友人の息子さんと三人で食事をした。8歳の彼は知らないうちに俺の隣に座っていた。子供はまず大人を二種類に分ける。怒る大人と、遊んでくれる大人だ。俺は自分が遊びたいから、遊んでくれる大人に見えるんだろうと思う。
じゃあ、大人になっていいことって何なのよ、と聞かれたら、それは実現力だと思う。大人には大人のRPGがある。本来は、ゾンビのような顔で不平・不満を言いながら過ごさなくていいのが、豊かな大人のはずなのだ。
映画を観ようと思ったけど観なかった。イベントに行きたかったが遠かった。損得や常識で考えればプライオリティは決まってくる。選択肢の中からできるだけ「何もしない方」を選ぶ。そっちを選んだくせに、話に参加だけはしたいから「行きたかったっすよ」と言うんだけどな。言い訳人生。
大阪で田中さんと長久監督のトークイベントがあるというので、この気分が新鮮なうちに監督に大至急会ってこようと決めた。毎日を覚醒したイベントで埋め尽くすために生きてんだから。
「行きたかったっすよ」の大人にはなりたくないから。