ミッドナイト・ツルッパゲ
リスナーの皆さんこんばんは。ロバート・ツルッパゲです。今日は仕事で金沢に行きました。ミッドナイトではないのに新幹線の中でこれを書いています。最初のお便りは「今頃ジョージアと言われても」さんです。
ロバート、こんばんは。先日ある友人がネットに若い頃の自分の話を書いていました。懐古というわけでも現在の否定でもなく、個人的な体験についての話でした。私はとても面白く読んだのですが、そこについていた数十人のコメントを読んで考え込んでしまいました。それらの反応がほぼ「否定的」である上に、似たような内容だったからです。私は彼の知性や性格を知っていますから、誰かを非難したり断罪する内容でなかったのはあきらかです。しかしネットのいわゆる「コンプライアンス警察」はそれを見逃しませんでした。
「あなたの考えは自己中心的である」
「自分の狭い領域での体験を一般化するな」
「自分の印象だけで断言するな」
「あなたに他人の何を批判する権利があるのか」
彼らの論調は画一的です。「誰かと摩擦なく折り合いをつけていくこと」だけを考えているので、自分の意見を明確に打ち出す人を叩いておかないと不安になるのでしょう。ソーシャルメディアはマスコミの対義語とも言えますから、どれもこれも「自分の感想」が出発点でいいわけです。それをBPOの真似事のように「コンプライアンス違反だ」と(それも匿名で)糾弾するのは、ただの趣味とさえ言えます。
自己中心的なことを自由に書いてもいい場所がソーシャルメディアであり、ひとりひとりの「狭い領域での知見」をつなぎ、縫い合わせて世界の全体像を描くのがソサエティだと思います。自分の意見を言わないことで他人に迎合している人からしたら断言する人は恐ろしく見えるでしょう。批判する権利など誰にもないと主張するのなら、その人にだって批判する権利はない。私は誰とでも理解し合っているような雰囲気だけ取り繕うハッピー処世術の方が嫌いです。そんなことは台本がある予定調和のテレビ番組くらいでこと足りているからです。
こういう『警察になりたい人々』に出会ったときにどう対処したらいいか、マイアミバイスをお願いします。
というお便りでした。ジョージアさんが言っていることはとてもよくわかります。世の中には他人に迎合したり、摩擦を避けて生きている人がいます。むしろそちらのほうがマジョリティでしょう。両者を分ける壁ははっきりしています。それは「自分というコンテンツで生きていけるかどうか」ということです。私は会社員を10年くらい経験しましたが、そのときは会社に依頼された仕事を振り分けられていました。私がしていたのは、私に依頼された仕事ではなかったと気づいてからは、自分に仕事を依頼されたいと思うようになりました。そうなるとすべてを「断言」しなければならないのです。自分は他の誰とも違うと表明できないと、商品価値がないからです。
誰とでも仲良く摩擦なく生きているよりも風当たりは強くなりますが、その風がヨットを劇的に速く進めることもあります。それぞれのスタンスの違いはあるでしょうが、無風であることを平和だと感じる人は凪の中で生きればいいし、ジョージアさんがどう生きるかは自分で決めればいいだけのことです。それが私のマイアミバイスですが、凪の人々は「君もそう思うよね」と仲間を作りたがるので、つねに数の論理では負けるのだと言うことも理解しておいてください。
曲は、風で『ささやかなこの人生』です。
(スタッフに)
俺はグルジアって名前のほうが好きだったな。