見出し画像

なにか書きつける I

美術をやっている人間の美術の話を読んだので、私もなにか書きつける。そのうち私的人形論とか私的戦車論とか、詩的美少年論とかも書くことになると思う。

先刻読んだ記事に、"それ"以前の美術はひたすら三次元を二次元に落とし込む、写実あるいは捨象することに終始していたが、現代美術は空間を越え三次元を越え、また一つ異なる軸を――たとえば時間を――取り込むものなのだ(だから現代美術というとやたらと立体なのかもね)と書いてあったのだけれど、これについて幾らか書くことにする。というのも、私の本業はゲーム制作であり、ゲームというのは第一から第六第七くらいまである"芸術"――古典的には、建築、絵画、彫刻、音楽、舞踏、文学、そして映画――のいずれにも明確に勝る、とある優位性をもつ芸術なのであって。

人間の体験というのはなにも、情緒を受取るばかりで形成できるものではない。自らが納得のできる結果を自らの行動が生み出してこそ、人間は事象を体験として受け取る。
ゲームは体験を形作ることができる。かなり大仰な言い方だけれど、ゲームというのは"予め"インタラクティブなものであるから、人間に一定の体験をさせるデバイス、デザインされた体験を与えるペリフェラルとして働く。双方向的コンテンツを上手くデザインすることは、それが人間に与える体験をデザインすることに他ならない。ゲーム……というか、『インタラクティブさを宿命づけられた表現手法』の優位性はまさにここにある。これはときに建築以上に空間を支配するし、絵画以上に情緒に訴えるし、彫刻以上に理念を具現化できるし、音楽以上に感性を揺さぶる。舞踏より烈しく、文学より鋭く、映画を超える総合芸術として機能しうる。

こと作り手の立場からすればこんなに厄介なものもないのだけれど、ゲームというのはとんでもなく奥深い。双方向性という一側面だけを見ても、この上なく人間に体験を与えることに向いているし、このインタラクティブさが物語だとか情緒だとか、それこそ目に見える空間的要素とかと結びついて、とんでもなく上質な体験をもたらすこともある。

ただ、そこでたまに、物語が邪魔をしたりもするのだよね。
私は物語というのをある程度一本道な、多少の分岐があろうときっかけと結末が一組になったものだと思っているから、男の子と女の子が劇的な出会いをして劇的な別れを経験するという物語ならば、それがどういったものになるにせよ二人は離別しなければならないと思っているから、物語の収斂性とゲームのインタラクティブさとが噛み合わない部分が出てくることがある。これがつらい。制作コストというのもあるけど。
もちろんこれは物語と物語作りの理論のほうにアップデートが必要なんだろうけどね。

この話はそのうちまた、書くかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?