なにか書きつける VI
先日フォロワーがこんな記事を書いた。
また、こんな記事もある。
キッサテニウム、或いはサテニウムとは曰くこういうものだ。
気の置けない仲間と喫茶店で談笑することで得られる、仮想の脳内物質。中毒性が高く、その欠乏は死を招くが、摂取するにも一定の素地と教養を必要とする厄介な物質だ。
以上の記事における"友人たち"、つまりわれわれがなにかと喫茶店に入りたがるのは、喫茶店でしか得られないもの――サテニウムを補充せんがためである。サテニウムの正体については二つの記事を読んでいただけばよいのだから、ここではなぜ、なぜサテニウムが代替不可能な貴重資源となり得ているのか、私見を述べることにする。
まず、われわれは談義談笑を好む。とくに話題を設定するでもなく語らうことを好む。それはわれわれの語らいが多分に自己と自恃心の発露であるからだ。われわれと話の合う人間というのは些か限られており、われわれが求める水準での会話というのは、それこそ選ばれた人間にしかできない(とわれわれは思い込んでいる)。だからこそこの高望み集団は、個々人が理想とする会話、よい会話ができたとき、至上の歓びを覚えるのだ。
よき相手との語らいはサテニウムの一大要素であり、欠くことは出来ない。
でもそれならどうして、語らいの場が喫茶店でなくてはいけないのだろう?
これは、喫茶店というのが儀式の場であるからではないだろうか。つまり、われわれが喫茶店を訪れるのは、儀式中毒のためではなかろうかというのである。
喫茶店や喫茶店での所作には固有の様式がある。半回転させたコーヒーカップに砂糖を摘み入れるひとときにも、様式は現れる。様式は儀式を呼び、儀式とその閉鎖性はわれわれを親密にする。閉鎖性と内輪の信頼感は、ときにわれわれを開放的にさえするだろう。つまりこの儀式に、サテニウムの中毒性がある。
また喫茶店というのは、例えばメニューを置けば注文を取りに来るような場、察し察される場である。緊張せず、かといって弛んでもいない糸が、意識と示唆の透明な糸が張り巡らされている。この予定調和が喫茶店の非日常性を生み出しているのだから、予定調和を嫌うわけはない。
いまひとつに、サテニウムの生成にはある種の場の力が要求されるのではないか、という言い方をすることもできる。喫茶店という空間の異質さ異様さは、店舗によって実に様々な形で発出しており、儀式の場として適格な喫茶店なら必ず、独自の毛色を獲得しているものだ。儀式の場にもいろいろあるのだ。
それは一般に会話というのが極めて流動的なものだということも関係するかもしれない。話題が交響的に発展するわれわれの会話では、思考の取っ掛かりは多い方がよい。
すべての調度品がひとつのテーゼの下に調和している喫茶店でも、はたまた雑多な蒐集物が所狭しと並ぶ喫茶店でも、喫茶店の内装というのは会話の内容や質に少なくない影響を与えるものだ。こうした影響を好んで受けようとすることも、われわれの会合の特徴かもしれない。
こうなれば、いよいよサテニウムは喫茶店でしか得られない。Twitter、ダイレクトメッセージ、はたまたDiscordなどでのボイスチャットには、特別な場で生成される特別な物質の生成は望めない。代替手段も乏しく、われわれは疫病の収束を俟つばかりである。
われわれが喫茶店を愛するワケ、分かっていただけたかしら?
ところで、サテニウムの恙無い生成にはときにニコチンを要すようだ。わたしは滅多に喫わないのだが、つぎの機会に、触媒としてのニコチン摂取を試してみようと思っている。
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