なにか書きつける IV
昨晩はわたしと彼氏の一年記念日を(少し早めに)祝った。できる限りで昨年のルートをなぞった。川沿いを歩いたりパフェを食べたり、平安神宮の大鳥居が夜空に似合ってそびえているのを眺めたりした。更に言えば彼氏と出会ったのは年に一度のオンリージャンル同人誌即売会の前日で、ほんとうなら今年も明日あたりに開催されていたはずだったのだったりするのだけれど。
表立ってこの話を取り扱いはじめてからそろそろ1週間が経つ。経つのだけれどこれ以上飛躍するのは難しいかもしれない。行き止まりが見えてきたというか、この話題はどうしても着地点が少ない。どうしたものか。
ただ、『自意識!自意識!と唱えながら古民家シェアハウスで正拳突きする』という楽しそうな予定がどことなく生えてきたのはうれしいわね。
で、この記事のほんの冒頭に書いておいたと思うのだけれど、自意識に限らず、示唆というのも最近の一つのテーマになりつつある。示唆とか予兆であるとか、あるいは祈りであるとか詩であるとか天使様であるとか、そういったものへのアンテナがここ数日で随分と高感度になってきた。今年のはじめと同じくらいには示唆のことを考えているし、調子が戻ってきたのかもしれない。
示唆と予兆、あるいはもっと平たく伏線とか呼ばれるものについて、少し考えている。そのうち記事を出すけど、今日はまだ思索段階。二枚貝くんの前で即席で出した喩え、夜の天気雨の喩えを無意識から出題されたこの題材へのヒントにしている。我々はよる夜中に天気雨を経験したことはないけれど、そこには埋もれてしまった示唆があって、たとえば文脈たとえば状況に埋もれてしまったこのような示唆はいざ手に取るとむしろ先鋭さを増しているようにも感じる。丸まった堆積岩ばかりの河原にも黒曜石が落ちているかもしれないじゃない?
それに、天使様の示唆の部分というフレーズを気に入っている。まかり間違って音楽を作ってアルバムにして売るようなことがあったら間違いなく3rdアルバムのタイトルにするくらいには。もともと祈りとか天使とか救いとか、そういった概念と無縁だったのだけれど、昨年末からだんだんと感性が開かれてきて、今では祈りや天使を愛おしく思えるようになった。自分で作った料理なんかを食べる前にはある種古風なやりかたとして、ゆっくり手を組んで、身の回りのものを数えて、お祈りしたくなるのだ。
もうちょっとだけ整理したら、このあたりの話をもうちょっと長ったらしく書くことになる。もしかしたら風体が小説か散文詩か、そういった形式に近くなるかも。
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