TVアニメ「アイドルマスターシンデレラガールズ U149」第7話 感想と解題 アニメーションの自由
最初に、冒頭に提示されるサインを見逃していなければ、混乱することもなかったかもしれないのに。
アイドルマスターシンデレラガールズU149、第7話の感想と解題です。
第1の感想(初見)
最初にこの「アイドルマスターシンデレラガールズ U149」を見たときには、どちらかといえばリアルに作り込み、デフォルメや想像を入れない作品だと思っていたのですが、この第7話の物語はファンタジーに振り切っており、その点は戸惑いました。
全体的に見れば、この回は「古き良きアメリカ映画」に似た「ミュージカル映画(アニメ)」となっていました。そのことに気付いたのは動物たちがしゃべり始めてから、でした。このお話で「どこからが現実で、どこからが想像で、どこからが夢なのか」を問うのは野暮というものです。ディズニー映画の初期、ミュージカル映画と見なせば、このお話は理屈抜きに「上手くいっていた」と私は考えています。
ただ、これまでの本作の作り方や、その他のアニメーション作品の現状での流行などを考えると、ミュージカルアニメーションは唐突なだけでなく、「古臭さ」を感じさせるものだったことも確かではありましょう。それでも、「アニメーションでシンデレラ(お姫様)を描くなら、この作り方を抜きにできないはずだ」と言わんばかりに、臆面もなくミュージカルアニメ—ションを作ったスタッフには感服いたします。
何故この作品が深夜に放送されているのか、わからなくなってきます。本来なら、「ちっちゃな雪使いシュガー」同様、日曜日の朝の時間帯で放映されるべき作品でしょう。
深掘り解題
では、どのあたりから現実と創作が入り交じり始めるのか。
それを探りつつ見てみると、だいたい10分くらいが経過したところに鍵がありそうです。高森藍子が「さあ、つぎにヒョウくんをだっこしてみたいお友達はだれかな〜?」と呼びかけた直後、このあたりで小春を写しつつ背景がホワイトアウトし、周囲の声が遠ざかるようにエコーがかかり小さくなっていくという、「気が遠くなるような」「解離するような」効果が用いられています。
この場面を皮切りに、少しずつ創作が現実を侵食していきます。そして、これはおそらく皆さまもお気付きかと思われますが、ピンク色の蝶が登場したあたりから小春は創造の世界に入り込んでいきます。実際にはどうだったかについては、本来、気にしないことがこの回では大切です。それでも、と考えるならば、着替え終わった小春は「何らかの理由でテントを出ていった」としか言えないかと存じます。
隠されて見えないならば覆いを外せばいい、あるいは見る場所を変えればいいとはいうものの、アニメーションという作品の中での話ですので、こちらがいくら「見てみたい」と願ってもその願いはかないません。
そうかといって、この世界が病的な幻覚であるかどうかも、断定できません。病的な世界だとして作品を否定するのは、かつてのディズニーのアニメーション映画やミュージカル映画の否定とも言えてしまうでしょう。
本来、アニメーションはそのあたり実写よりもずっと自由度が高い表現方法です。どのような表現方法でも飲み込んでしまうことができる、それがセルアニメーションです。
現実と想像の世界の境界が曖昧であるのは、アニメーションの特権です。それを利用し、押井守監督「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」や今敏監督「パプリカ」「千年女優」などの名作も生まれています。病的にも見える作品群が現実を照射したとき、鋭い評論にもなり得ることをこの作品群は示したはずです。
歌とダンス
さて、脱線してしまいました。
実は冒頭に、「この作品はファンタジーです」という隠されたメッセージがあるように思われるのです。何かというと、寒さに凍えている「迷子の」小春に手を差し延べる「お姫様」が、「ガラスの靴」を履いている場面がそれです。
この構図は「現実の母親が自分を見つけてくれた場面(=ミュージカルの歌い出し)」であり、ラスト近く、「小春が迷子の女の子の手を取る場面」でもあります。彼女が見つけたのは、「そういうアイドル」なのだと主張しているかのように、です。
このあたり、詳しく考えようとすると混乱するかと思います。夢か現かわからない、あるいはどこかで見たことのあるアニメーション映画なのか、そういうことを匂わせている場面まであり、このあたりからすでに現実とアニメ的創造が入り交じっているのです。
そして、ヒョウくんが小春の側から自分の脚で立ち去って行ってしまい、小春が泣き出す場面から先は、もう創造と歌とダンス(ミュージカル)の独壇場です。絵本の中に潜り込み、トレス線(輪郭を彩る線)も黒でなく濃いピンクになり、小春の場面は全体的にパステルカラーになっていく。
そんな中で、現実の彼女はどうやら眠り続けていたようです。そして夢か現かわからない体験の中で、将来の夢は「お姫様」のまま、「今の私はお姫様みたいなアイドル」という自覚を手に入れる、そんなエピソードに落ち着いていました。観衆は観客に、歓声はコールとペンライトに変わるけれど、自分の「本質」は「お姫様を目指すアイドル」という目標を手に入れた、そのようなお話であったと私には思えます。
描かれたもの全てが現実であるとは限らない。それがアニメの特権、アニメの自由です。バトルファンタジーなどでその恩恵を享受するなら、この作品でも大いにその自由を満喫してほしいとも、私は思います。
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