「お隣の天使様にいつの間にか駄目人間にされていた件」アニメ版 第9話の感想
3月4日に放送されたアニメ版「お隣の天使様にいつの間にか駄目人間にされていた件」の感想など、つらつらと書き綴っていこうと存じます。
ごく自然に、当たり前のように2人でいる周と真昼。
この2人の関係の推移の仕方を考えると、2人の距離感がどうしてもバグることがある理由を類推できるのですが、これはこのお話では特に考えるべきことではないので、また別の機会にします。
連休を目の前にして、多少困惑する2人を見ていると、まだ「2人でいるだけの幸せ」を手にはしていないのかな、という疑問が浮かびます。何か変化が欲しいのでしょう。2人の空気を引っかき回す千歳の来襲も日常の中に組み込まれていき、ただ居心地が良いだけでは手に入らない何かを探すように、真昼はお出かけするために「切り札」を使います。
「何でも言うことを聞く券」をアクセルにして、絶妙な距離にいながらもう一歩を踏み出せず、どうしても立ち止まってしまう自分たちを動かそうと、真昼はお出かけを提案します。それは、周の思いを満たすための行為であり、相手が満ち足りることが自分の幸せ、という真昼らしい選択でした。
真昼も周も、自分のしたいことは後回しにして、相手が喜ぶことを優先してしまいます。それでは届かない距離があるのです。しかし、2人は共にあと一歩の距離を保ったまま逡巡してしまいます。そこにあるのは「強すぎる渇望と絶望」と「傷つく恐れ」から来る、こころの距離です。
周と真昼、ふたりはもう結ばれているのではないかと、まわりから見ている私たち視聴者や、彼らを見守る樹、千歳からはそう見えて仕方ありません。それは詮無きことです。
実際のところ、周と真昼には確固たる絆が結ばれているでしょう。端から見れば仲睦まじい恋人同士に見えても仕方ないでしょう。それでも彼らは「付き合っていない」と否定します。
普通のカップルとは関係の変化の仕方がずいぶん違ってしまっているせいで、2人は自分たちの関係を「恋人」のそれであるとは認識できていない、あるいはそうあっても見ないフリをしているように感じられます。
それでも彼らは文字通りふれ合います。身体同士のふれあいでわき上がる思いは止めることもそう簡単にはできません。しかし、身体の感覚に身を任せればこころが砕けてしまうかもしれない。そのことが彼らを追い詰めますが、それは端から見れば晩熟以外の何者でもありませんでしょう。
猫カフェに行くお話は、またあとで感想をしたためるとして。
優太に2人の関係がバレてしまいました。それでも優太は2人の意図を酌み、じれったく思いつつも2人を守る立場に落ち着きます。
このお話の結びに、周と真昼はひょんなことから抜き差しならない状態に陥ります。真昼を周が押し倒したような体勢になってしまう。それでも進みきれない周を、私は「へたれ」とは呼びたくはありません。
臆病は慎重の裏返しであり、それが生み出す落ち着きとたゆたう時間は、彼と真昼が共に居場所を分かち合える大きな理由にもなっているからです。
真昼には、身体の欲求や絆よりも大切にしなければならない何かがある。それが今の2人を強く結びつけている。端から見ればじれったいですが、多分、彼らの思いや身体に任せておく方がよいのだと、私は考えるのです。
全ての思いを置いていかない。真昼の持っている圧倒的で絶望的な欠落は、周が持つ無尽蔵にも見える慈愛をもってしても、そうやすやすと解決できるものではないと、私は思います。
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