見出し画像

きみの色・解題、観察、分析(基本ネタバレ) 小説の記述を踏まえて

前回の記事は小説について未読でしたが、この記事は小説読了後に書いています。ですので、この記事は小説での言及を引きつつ、傾聴・観察・分析し、解題することを狙います。
多少難しい話がありますが、ご容赦ください。

「不変項」と「気色(けしき)」と「名付けられていないこころの動き」

まず、「名付けられていないこころの動き」について語ろうかと想います。
小説では、前回の記事で述べたきみの「名付けられていない感情」について、このように書いています。

それがきみのどんな感情を表しているのかトツ子にはわからなかった。そんな気持ちを経験したことがなかったからだ。

小説 きみの色 より 抜粋

言葉にすれば単語一つ、あるいは漢字一文字で表されてしまうこの、未だに得体がしれない「こころの動き」について、この映画では「キラキラと降り注ぐ破片」や「青と緑が形になり、動き、踊る」アニメーションとして表現されました。
この「想い」に当てはめられる単語を口にしないのは、何故なのでしょうか。

まだ名付けられていない または 名付けたくないこころの動き

トツ子ときみの間に「特別な感情」は感じられなくもありません。しかし、それはあくまでセリフの描写などの「類想(あるある)」にとどまっています。ここに定型的な「間柄」を説明する単語を入れることもありませんし、アニメーションの表現においては特に突出した作り込みが行われてもいませんでした。

それに対して特別扱いされた「感情のような何か」は、トツ子が目撃した「色」「形」「動き」のみで作られた、特殊といえるアニメーションとして作成され、表現されています。
それはきみとルイのあいだに生じた何かで、それはきみの「未だ名前のないこころの動き」として描かれました。
それは言葉にすると、ともすれば非常に陳腐になってしまうものです。それを避けるためにこの作品は、その「こころの動き」を正面からアニメーションで表現し、代わりに、言葉で説明したり分類したり語ったりしない姿勢を貫いていました。

ここについては小説を読むと結構な分量を費やして描写されています。しかしそうであっても、この「何らかのこころの動き」を名前で呼ぶことは、言葉でしか表現できない小説においてさえ徹底的に避けられています。
これは山田尚子監督が「『それ』が持つ意味や性質をできる限り全て保持したまま、まるごとアニメーションにして表現する」ことを狙ったためと考えられます。「それ」の「分類」以前の「元のかたち・いろ・うごき」を、それだけ重視しているのでしょう。

トツ子が見ている「色」について

このことは、「トツ子」が見ている「色」の解釈に極めて重要な視点を与えてくれます。それは、未だ私たちが分類し名付けていない、それでも確かに存在する「何か」です。アニメーションという表現方法は、実は「それ」を「生(なま)の情報」として扱い、色とかたちと動きと音で表現することができるのです。

トツ子が人に見る「色」について考えると、まず「共感覚」が思い浮かびます。その説明はここでは詳しく触れません。「共感覚」については小説で触れられていますし、ChatGPTに訊ねるなどすれば、大体のことは教えてくれます。
トツ子は「色として見る」だけでなく、私たちのいつもの視覚情報もちゃんと知覚していますから、これを「色覚異常」という「分類」と「ラベリング」をする態度は、知覚に関する知識不足、あるいは「色」に対する洞察不足によるものなのでしょう。

ここで言う「色」とは「気色(けしき)」だと、ここでは解釈します。
人がどれだけ変わろうと、どのような状態にあろうと知覚される「個々人の持つ気色(けしき)」があります。それを、知覚心理学の一部である生態心理学では、「不変項(Invariants)」と呼びます。それは、その人を直接特定できる、そのひとに固有で不変な意味や性質であり、知覚可能な「情報」です。
私たちは視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚を駆使して「不変項」を直接知覚しています。だからこそ、トツ子はきみの持つ「色」について、こう言えるのです。

あの青は他に存在しないはずだ。

小説 きみの色

「きみ」の「色」は「きみ」に固有の性質であり、他には存在しないのです。

少なくともこの映画においては、私たちはその「名付けようの無い、個々人に固有で不変の意味・性質」を、強いて言えば「アイデンティティー」と解釈してもいいでしょう。
それは「明確に知覚可能な固有の性質」でありながら言葉にするには難しいものです。そのうえ、言語化すると多くの情報がその過程でこぼれ落ちてしまい、「その人らしさ(アイデンティティー)」を示す情報は崩壊してしまいます。
だから、言語化する前、情報が形になり分類される前の「何か」をひっくるめて「アイデンティティー」、いや、正確には「不変項」と呼ぶしかないのです。

それにも関わらず私たちは「形になる前の、個々人に固有の」知覚情報をとらえています。だから例えば、ホームカミングデーで数十年ぶりに顔を合わせた同級生でも、「その人」をアイデンティファイできる……特定できるのです。

そう考えれば、実はトツ子同様に、私たちもまた人に「色」のような何か……「気色」「気配」を知覚して、その人を特定していることがわかります。すなわち、彼女は「色」として、物体や事象が持つ固有な意味・性質、「不変項」を知覚しているのです。

守護者・安全安心を保証するもの①

日吉子という守護者

トツ子ときみが校則を破ったときに、シスター日吉子が「彼女(きみ)にも同様の罰を」というセリフ、および意見が意味するところは、「彼女の罪の意識を軽減するための機会と時間をいただきたい」「贖罪するチャンスをください」ということですね。
何故そのようなことをしなければならなかったのでしょう?

このような事態にエンカウントすると、「きみ」のような責任感が強い、いや「責任感が『肥大化』している」人は、下手をすれば「(執行が猶予されているのではなく)(無関係であるがゆえに)罰が無い」ことを気に病んだ挙げ句、自分を罰する行動(自傷行為等)に出ることも予想されるため、注意深く見守る必要があります。このことは小説でも言及がありますね。

同様の事象として、雪が多く降ったことによりフェリーが欠航し、ルイのいる離島から帰れなくなったトツ子ときみを、「合宿中」という尤もらしい理由をつけてかばったことが挙げられます。

挙げればさらに色々出てきます。これらの描写から見えてくるシスター日吉子は、「教師」の分を越えたような行動をとります。在学生のトツ子に対してだけでなく、きみやルイまでくるめて3人に、文字通り「姉(シスター)」のように接していることが、この映画における「毒抜き」として機能していたと思われます。作品の中の登場人物としてはこの役割が大きいです。

また、トツ子やきみには、聖書や祈りの言葉から出発して様々な助言をしています。このあたりはまさに「修道女」として優秀であることがわかります。

ところで、日吉子は「しろねこ堂」で何故「はてしない物語(邦題)」(英題:The Never Ending Story)を買ったのでしょうか。
これについては情報が少な過ぎますが、重要なことは、もっともらしいことを言いつつきみと接触し、「バレンタイン祭」のチラシを渡すことが目的だったのかもしれません。

続きます。


いいなと思ったら応援しよう!

佐分利敏晴
よろしければサポートの方もよろしくお願い申し上げます。励みになります。活動費に充てさせていただきます。