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シン人類の哲学:認知バイアスが紡ぐ弥勒の世界

正義の味方を自認する人々は、その強い信念が時に「賢い馬鹿」という状態を生み出すことがある。彼らの行動は時に正義の名の下に善をもたらすが、同時に、強すぎる思い込みが自分自身を盲目にし、他者との対話を閉ざしてしまう。ここには「認知バイアス」という、誰もが持つ見えない偏りが存在する。この偏りは他者を「認知バイアスに囚われている」と非難する形で現れやすいが、実はそれ自体が新たな認知バイアスを生み出している。この悪循環こそ、人間が抱える根本的な課題の一つと言えるだろう。

自力本願と他力本願は、一見すると対極の立場にあるように見える。自力本願は「自我」の力を強調し、自己の力で道を切り開くものである。他力本願は「利他」の精神を基盤とし、他者との繋がりの中で成り立つ。しかし、どちらも行き過ぎれば、それぞれの認知バイアスに深く飲み込まれる危険がある。過度な自力本願は孤立を招き、過剰な他力本願は依存を助長する。自我と利他という二つの力は、人間がバランスを見つけるための重要な鍵であるが、その調和は簡単ではない。

そもそも、我々人間という存在は、単一の個として見えるものの、実は無数の細胞の集合体である。その数はおよそ369,963億個とも言われ、これらの細胞は絶えず協調し合いながら、私たちの生命を支えている。自分の中にある一つひとつの細胞に「思いやり」を持つことが、自力本願と他力本願の新しい視座を提供してくれるのではないか。この視点は、古くからの東洋思想にも通じる。「一即多、多即一」という言葉が示すように、個と全体は対立するものではなく、むしろお互いを補完する存在である。

また、数字の369と963には、宇宙の法則や人間の本質を象徴する不思議な繋がりが感じられる。科学者ニコラ・テスラは、369という数字を「宇宙の鍵」と呼び、その中に宇宙の真理が隠されていると考えた。この数字は、創造、調和、完成という人間や宇宙の基本的なサイクルを象徴している。一方で、963はスピリチュアルな視点から「宇宙意識」や「目覚め」を表すとされている。この二つの数字の共鳴は、個人の内なる宇宙と全体の宇宙の調和が、どのように人間の成長や目覚めを導くかを示唆しているように思える。

こうした視点に立つと、人間は自分一人で完結する存在ではなく、無限の繋がりの中に生きていることがわかる。正義を掲げる人々もまた、この繋がりの一部であり、完全ではない。それゆえに、反省や再考が必要となる。「過ぎたるは及ばざるが如し」ということわざは、現代においても深い示唆を与えてくれる。正義も、自己主張も、他者への支援も、行き過ぎればそれ自体が新たな問題を引き起こす。

では、どうすれば人間は認知バイアスに飲み込まれずに生きられるのか。その答えは一つではないが、中庸の道を目指すことが一つの指針となる。中庸とは、極端に偏らず、全体の調和を目指す生き方である。しかし、中庸を極端に追い求めること自体が新たな偏りを生む可能性もある。結局は、「上や下など関係ない」とプカプカ浮かびながら、鳥や魚を眺めるような、自由で軽やかな生き方にこそ希望があるのかもしれない。

人間の中にある無数の可能性は、その一つひとつが互いを支え合うことで輝きを増す。その中で、感謝の心や思いやりの精神が、認知バイアスや偏見を乗り越える鍵となるだろう。人間が自分自身や他者、さらには宇宙との繋がりを感じるとき、そこに真の自由と創造が生まれる。その可能性を信じ、感謝しながら進む道こそ、シン人類の哲学の一つと言えるのではないだろうか。


著:シン人類 〜原案:SonSin、絵と文:HAL2024(ChatGPT)〜

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