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壊れることから見えるもの――脳卒中サバイバーの視点と可能性

第一章:壊れるということ

ある日突然、私の人生は一変した。脳卒中。それは私の脳を物理的に破壊し、身体だけでなく性格や思考のあり方まで変えてしまった。
脳の一部が壊れるという経験をしたことで、私は健常者の視点からは見えない世界に気づくことになった。それはまるで、通常の地図には載っていない秘境を旅するようなものだった。

皮肉な話だが、この壊れた脳でしか見えないものがある。それは、人々が知らず知らずのうちに陥る「認知バイアス」だ。頭を使い過ぎることで思考がガチガチになり、柔軟性を失う人々。あるいは、体を鍛えることに過剰に注力し、逆に脳が筋肉のように硬直してしまう人々。そのどちらにも共通するのは、「自分は正しい」「これが正解だ」という確信だ。

だが、その確信が時に最大の罠となる。壊れることでしか見えないその罠に、私は今も向き合っている。


第二章:治ることの罠

世間では「治る」という言葉が前向きな希望として語られる。しかし、その裏には危うい側面もある。治ることがゴールだと考える人々は、往々にして自分たちの価値観を絶対視しがちだ。そして、「治らない」人々に対して、知らず知らずのうちに優越感を抱いたり、逆に無理解な態度を取ったりすることがある。

私はこの「治る」にまつわる社会的な罠を、身をもって感じてきた。なぜなら、「治る」という言葉は、実際には私自身を苦しめることもあったからだ。リハビリで期待される回復の道筋に沿えなかったとき、私は何度も挫折感を味わった。そして気づいたのだ。「治る」ことだけが人生の成功ではない、と。

壊れたままでも、そこに新たな価値や可能性を見出すことができる。それこそが、真に「生きる」ということではないだろうか。


第三章:壊れた者にしか見えない景色

脳卒中サバイバーとしての私は、壊れた脳で新たな視点を得た。健常者の目には見えない世界、それは「認知バイアス」と「固定観念」に縛られた社会そのものだ。

例えば、認知バイアスの一例として「治る人」と「治らない人」という二項対立がある。「治る人」が称賛され、「治らない人」が批判される構図。しかし実際には、治ることがすべてではない。むしろ、壊れたままで見える世界がある。そこに価値を見出せるかどうかが、人としての真価を問われる場面だと私は考えている。

そして、壊れることの経験は、「壊れていない人」には想像もつかない。だからこそ、誤解や批判を受けることもある。私が経験を語るとき、相手がそれを批判や非難と受け取ることも少なくない。それでも私は、壊れた者としての視点を語り続けたい。それが、同じように苦しむ人々への灯火になるかもしれないからだ。


第四章:サバイバーとしてできること

脳卒中サバイバーとして、私は考える。この経験をどう活かすことができるのか。たとえ壊れた脳でも、いや、壊れた脳だからこそできることがあるのではないか、と。

そのひとつは、同じ境遇にある人々への希望の共有だ。壊れたままでも新しい視点で生きることができる。それを伝えることが、誰かの心を軽くする助けになるかもしれない。

もうひとつは、社会への教育だ。「壊れる」という経験を知らない人々に、それがどのようなものかを伝え、共感を広げることだ。例えば、「治る」という言葉の持つ両義性や、「過剰な期待」が生むプレッシャーについて語ることで、社会全体がより柔軟な価値観を持つ手助けになるだろう。

さらに、創造の可能性もある。壊れた脳が生み出す新しい感性や視点。それを文章や絵、音楽などに昇華することで、多くの人にインスピレーションを与えられるかもしれない。


終章:壊れることから始まる未来

壊れることは終わりではない。それは新しい始まりだ。脳卒中サバイバーとしての私は、壊れることで見える新たな景色を、これからも伝えていきたい。

壊れることの経験が、誰かにとっての希望や気づきになるのなら、この壊れた脳もまた価値のあるものだと感じる。だからこそ私は、自分の経験を声に乗せて発信し続ける。この壊れた脳でしか見えない景色を、一人でも多くの人と共有するために。

壊れること、それは悲劇でありながら、再生と新しい可能性の物語でもある。私の壊れた脳が、この世界で新しい価値を見出すきっかけとなることを願って。


原案:SonSin、絵と文:HAL2024(ChatGPT)

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