見出し画像

シン人類の哲学──テレビ、ネット、そして言論の進化

テレビは間接民主主義でありながら、ある種の自浄能力を持つ。その本質は、スポンサー、視聴率、倫理規範といった複数のフィルターを通じて情報が精査される点にある。テレビにおける言論は、編集や演出というプロセスを経ることで、一定の統制がかかる。しかし、その統制が健全なバランスを保つかどうかは、視聴者のリテラシーや社会の成熟度に依存する。テレビの言論は、いわば「間接的にコントロールされた言論空間」であり、そのために情報の偏りや報道の自主規制といった問題がつきまとう。

一方、ネットは直接民主主義の形をとる。誰もが発言できる場であり、フィルターがない分、賢い馬鹿や純粋な阿呆の声が際立ちやすい。これは、インターネット空間が「無制限の自由」を与えた結果でもある。だが、人々の思考が無秩序に拡散されることは、必ずしも「真実の解放」には繋がらない。なぜなら、真実とは冷静な分析の上に成り立つものであり、感情やバイアスによって歪められる危険性が常にあるからだ。

この点において、𝕏(旧Twitter)というプラットフォームは極めて象徴的である。イーロン・マスクは裸の王様なのか、それとも意図的にマスクを被っていないフリをしているのか。そのどちらなのかを判断するのは難しい。彼が「言論の自由」を掲げながらも、プラットフォームの混乱を利用して、ある種の新しい秩序を模索している可能性もある。これは単なる経済的な賭けではなく、思想的な実験でもあるのかもしれない。もし彼の目論見が成功すれば、人々は彼の「天才」に気づくことになるだろうし、失敗すれば「傲慢な独裁者」として歴史に名を刻むことになるだろう。

ネット社会が抱える本質的な問題の一つは、情報の流動性と責任の所在の曖昧さにある。誰もが発信者になれる一方で、発言の責任が十分に問われることは少ない。これにより、フェイクニュースや過激な意見が、事実と同等の影響力を持つことがある。哲学者ハンナ・アーレントは、「悪の凡庸さ」という概念を提示し、人々が思考停止のままシステムに従うことが、重大な社会問題を引き起こすと指摘したが、これはネット社会にも当てはまる。人々が自ら考えることをやめ、流れてくる情報にただ反応するだけの存在になれば、そこに真実は生まれず、社会は「衆愚」の方向へと傾いていく。

しかし、テレビとネットのどちらが正しいのかという議論は、本質を見誤る。重要なのは、「発信される情報」と「受け取る側のリテラシー」の相互作用である。テレビは編集された情報を届け、ネットは未加工の情報を拡散する。どちらの手法にも利点と欠点がある以上、それをどう受け止め、どう利用するかが問われる時代に生きている。

また、世の中には「負けを認めない」ことで生き延びる戦略がある。歴史を振り返れば、数々の思想家や科学者が当初は嘲笑され、後に評価が逆転した例は多い。ガリレオ・ガリレイは「それでも地球は回っている」と語ったと言われているし、ニコラ・テスラの理論も長く異端視された。真理は時に時代を超えて評価されるものだ。ゆえに、最後まで「自分が間違っていなかった」と言い続けることには、戦略的な意味があるのかもしれない。

しかし、それはまた危険な側面も孕む。負けを認めないことが単なる「自己正当化」に終われば、そこには成長も進歩もない。重要なのは、「負けを認めない」ことが、「新たな可能性を模索する」ことと同義である場合に限る。もし、ただ意固地に過去の発言を守るだけならば、それは進化ではなく退化に過ぎない。哲学者カール・ポパーは「反証可能性」という概念を提唱し、真の科学的態度とは、自らの理論を批判し、修正し続けることにあると説いた。これは哲学や社会においても同じことが言えるだろう。

私たちは、賢い馬鹿や純粋な阿呆が跋扈するネット社会を批判するだけではなく、それを超克する方法を探るべきなのかもしれない。間接民主主義としてのテレビと、直接民主主義としてのネット。その両者のバランスをどう取るか、そして情報をどう咀嚼するか。ここにシン人類の未来がかかっている。


著:シン人類 〜原案:SonSin、絵と文:HAL2024(ChatGPT)〜

いいなと思ったら応援しよう!