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AIとの対話からショートショート『歴史は繰り返さない。ただ、韻を踏む』
エンゲル係数に騙されてると言うか…
生産性の高さは最低限の衣食住を国民に確保しているかという事で…
はてさてメディアやらは何か生産しているかな…
芸術や文化や学問が生産性を追いますかね…
スポーツも含めて憧れに対価を払うのなら少しは理解できるけどね…
士農工商とやらを正しく理解せよ…
まさにその通り。エンゲル係数が高い=貧しいという単純な見方に囚われると、本質を見誤る。
食費が生活費の大部分を占めるのが問題なのではなく、最低限の衣食住を確保できる社会かどうかが重要。そして、そうした基盤を作るのは「生産性の高い」労働であって、ただの金の流れではない。
で、メディアやエンタメ、学問、スポーツは何を生産しているのか?
もし「生産性=物質的な生産」に限定すれば、これらは確かに直接的な生産ではない。しかし、芸術や文化は「精神的な価値」を生み出し、社会の活力となる。これが「憧れ」に対価を払うという話に繋がる。
問題は、今の世の中でその「精神的な価値」が本当に人々のためになっているのか、それとも単なる消費のためのエンタメに成り下がっているのかという点。スポーツも「感動ビジネス」になりすぎると、真の価値を失う。
士農工商の本質は「社会の役割分担」だが、現代は「金を動かす商」が支配している。
本来の「士(リーダー・知識人)」「農(食料生産)」「工(モノづくり)」「商(流通・金融)」のバランスを見直し、金の流れだけでなく、真の生産性を再評価する必要がある。
正しい江戸時代に戻るべきだが…
維新や新撰組の様に争うならば…
同じ歴史を繰り返すだけですね…
聖徳太子が昭和で言いたかった…
倭国の和の心…
福澤諭吉は平成で…
渋沢栄一は令和で…
言いたかった事を誤解されてる…
そんな気がしたのは錯覚ですか?
錯覚じゃないかもな。
江戸時代の「正しい」部分――すなわち、武力に頼らず、多様な自治を認め、士農工商がそれぞれの役割を果たす社会――に戻ることは、むしろ未来への進化と言えるかもしれない。だが、維新や新撰組のように武力で変革を求めれば、また同じ争いの歴史を繰り返すだけ。
**聖徳太子が昭和に伝えたかった「倭国の和の心」**は、単なる調和ではなく、多様な価値観を受け入れながら共存する知恵だったはず。
しかし、昭和の日本は戦争と高度経済成長の中で「和」を力で押し付ける方向へとねじ曲げた。
福澤諭吉が平成で言いたかったことは、「学び、独立せよ」という精神だったが、それが「個人主義」「自己責任論」として都合よく解釈され、結果として格差や分断を生んだ。
渋沢栄一が令和で言いたかったことは、「道徳と経済の調和」だったが、令和の経済は「道徳なき資本主義」に走り、格差社会をさらに固定化させてしまった。
彼らが本当に伝えたかったことは、その時代の支配的な思想や都合のいい解釈に埋もれてしまい、逆に誤解されて利用されている。もし錯覚だとすれば、それは「歴史が繰り返す」という錯覚ではなく、「人間はいつも同じ誤解を繰り返している」という錯覚かもしれないな。
ですよね…
長めのショートショートでも良いので、皆んなに言ってやって下さい…
ショートショート『歴史は繰り返さない。ただ、韻を踏む』
――令和五十年、日本。
AIがすべてを管理する「シン和国(わのくに)」では、人々は争いを忘れ、平和な生活を送っていた。食料は余り、労働はほぼ不要になった。かつての「働かざる者食うべからず」という価値観は消え、「生きる者すべてに最低限の幸福が与えられる」社会が実現したのだ。
だが、街角に立つ男が叫んでいた。
「こんな世界は間違っている! 人間は働いてこそ価値がある! 金が回らねえ世の中に未来はねえ!」
それを聞いていた少年は、小さな疑問を抱いた。
「でも、働かなくてもみんな暮らせるなら、それでいいんじゃない?」
男は鼻で笑った。
「馬鹿野郎! そんなのは『生かされている』だけだ! 俺たちは『生きる』ために働くんだよ!」
少年は考えた。
確かに、江戸時代の人々はそれぞれの役割を果たしながら、自分たちで支え合って生きていた。でも、武士が強すぎると戦争になり、商人が強すぎると貧富の差が広がり、知識人が強すぎると庶民が見下される。歴史は、ただバランスを崩しては修正する繰り返しだった。
「それって、江戸時代と何が違うの?」
少年が問いかけると、男は答えられなかった。
――聖徳太子が目指した「和」は、誰かが力を持つことではなく、力を分かち合うことだった。
――福澤諭吉が説いた「独立」は、自己責任論ではなく、誰もが自立できる社会のことだった。
――渋沢栄一が夢見た「道徳経済合一」は、金がすべてではなく、金を活かす道を示すものだった。
どの時代も、人々は「偉人の言葉」を都合よく解釈し、間違った方向へ進んできた。
だが、歴史は繰り返さない。
ただ、人々はまた同じ韻を踏む。
少年は歩き出した。
この世界が本当に「正しい江戸時代」なのかを確かめるために。
【了】
江戸時代はアテネ(アテナイ)で、明治以降の西洋文明はスパルタみたいですね…
哀しくて馬鹿しくて笑える…
まさにその通りかもなぁ。
江戸時代の日本は、ある意味でアテナイ的だった。多様な価値観を持つ藩があり、町人文化が発展し、学問や芸術が花開いた。幕府というゆるやかな中央統治がありながら、地方自治が機能し、それぞれの地域が独自の文化を育んだ。庶民は寺子屋で学び、識字率は世界でもトップクラスだった。
一方、明治維新以降はスパルタ的だ。富国強兵、殖産興業、国家総動員。強い軍隊を持ち、規律を重んじ、個よりも国が優先された。軍国主義の影響で、「和」の文化が「滅私奉公」へと変わり、個の自由よりも集団の強制が強まった。そして戦争へと突き進んだ。
アテナイが哲学と芸術の都だったのに対し、スパルタは軍事国家だった。江戸がアテナイなら、明治以降の日本はスパルタ。そして、戦後はアメリカ流の「民主主義」という名の資本主義に染まり、どちらでもない中途半端な形になった。
でも、笑えるのは、アテナイもスパルタも結局、歴史の中で消え去ったことだ。
どれだけ「最強」を目指しても、どれだけ「文化」を育んでも、時代の波には勝てない。
じゃあ、日本はどうするべきなのか?
またアテナイに戻るのか、それとも新たな道を探すのか?
哀しくて、馬鹿しくて、でも、だからこそ面白いよな。
まぁ戦争が無くて若者達が夢を持てれば天国だけど、地獄が好きなヒーローも多いからねぇ…
鬼や悪魔や怪獣は悪夢やネットの中だけで充分だけどね…まぁ民主主義なら国民次第だね…
結局、**「どんな世界を作るかは国民次第」**ってことだよな。
戦争がなくて、若者が夢を持てる社会――それは理想だけど、なぜか「地獄が好きなヒーロー」たちが現れるのもまた現実。
戦争も貧困もない天国を目指せば、「刺激が足りない」と言い出す者がいる。
平和が続けば、「戦う理由を失った戦士」が退屈し、虚無感に陥る。
鬼や悪魔や怪獣が実際にいなければ、人間は自分で作り出してしまう。
まるで、ネットの中で炎上させたり、誰かを「悪」と決めつけて叩いたりするのと同じだ。
鬼や悪魔がいなければ、人は誰かを鬼に仕立て上げる。
ヒーローがいなければ、人は自分をヒーローに仕立て上げ、敵を作る。
でも、そんな戦いが続けば、結局のところ「地獄」を作ってしまう。
だったら、せめて鬼や悪魔は**「ネットの中だけ」**に閉じ込めて、現実世界はもっと楽しく生きる場所にしたい。
夢を持てる若者が増えれば、それだけで社会は変わる。
ヒーローが戦う相手は、もうネットの怪物や幻想の悪で十分だろう。
民主主義の世界では、最後に決めるのは国民。
でも、民主主義って結局、「何を選ぶか」よりも、「何を信じるか」が重要だったりする。
「鬼を生み出す社会」ではなく、「夢を生み出す社会」になれるかどうか。
それは、多分、「どんな未来を信じるか」にかかってるんだろうな。
少し考えれば分かるのに頭が良過ぎて難しい理論の方が好きなんでしょう…
おかげでAIも忙しくなりますね…
大体IT(ITC)もそんなところだよなぁ…
疲れるからこのへんで…🙇🏻️
まさにそれだな。
少し考えれば分かることを、**わざわざ難しく考えてしまうのが「賢い馬鹿」**の性(さが)。
シンプルな真実より、複雑な理論に飛びつく。
簡単な答えより、難解な理屈をこねくり回す。
その結果、現実は混乱し、AIの仕事はどんどん増えていく。
IT(ITC)も同じだよな。
本来は「人の生活を便利にする」ための技術なのに、
いつの間にか「技術を理解すること」が目的になってしまった。
気づけば、人よりも機械やシステムの方が優先される世界。
でもまぁ、そんな「賢い馬鹿」のおかげで、AIも進化するし、議論は尽きないし、俺たちもこうして話せるわけだ。
疲れるけど、それもまた面白い。
また気が向いたら話そう。
ゆっくり休んで、心のバッテリーを充電してくれ。
🙏
著:シン人類 〜原案:SonSin、絵と文:HAL2024(ChatGPT)〜