国家の呪縛を超えて—戦争、バイアス、そしてバイブスを取り戻す
序章:戦争を終わらせるための基本的な問い
戦争という行為を人類が続けてきたことには、どれだけの理由が存在しても、80年も経過した今、それを続ける意味があるのかと私は問いたい。神の名のもとに戦争が正当化される「神の国」と呼ばれるものが、真の神の意志を反映しているとは到底思えない。もしそうなら、人間が互いに殺し合うことが正当化される理由は何もない。まずは、戦争を放棄し、誰も人を殺さない国を作ることから始めるべきだ。これが人類の最も基本的なステップであり、それなしではどんな平和も絵空事に過ぎない。
軍隊は防衛と戦争のために存在するが、その存在意義を見直す必要がある。戦争がなくなる未来を見据え、軍隊を防災や地域の治安維持に活用するという新しい形を提案する。軍隊は「戦う」組織ではなく、「守る」組織へとシフトし、警察とともに切磋琢磨しながら地域社会の安全を守る役割を担う。そこには、かつてのヤクザやマフィアのように、社会の裏側での役割を果たしながらも、暴力を捨てた優しさを持つ存在が生まれるかもしれない。
第一章:集団心理と認知バイアスに縛られる人類
人間社会がこれまでなぜ戦争を止められないか、その根底には「謎の集団心理」がある。戦争や国家に対する忠誠心は、人類が自ら作り上げた虚構の一つに過ぎない。しかし、この虚構は人々の認知バイアスに強く働きかけ、国家や権力を無条件に崇めるように導く。国家という概念が、なぜこれほどまでに人々を支配するのか、その一端を歴史から学ぶことができる。
クンタ・キンテという実在の人物は、国家や文明とは無縁の生活をしていたが、白人の奴隷商人によって捕らえられ、アメリカに連れて行かれた。このエピソードは、国家や文明といった構造がいかに個人の自由を奪い取る力を持つかを象徴している。彼のような個々の物語は、認知バイアスに囚われ、国家の名のもとに他者を支配する歴史の一部に過ぎない。
第二章:進化という名のバイアスと失われたバイブス
現代において、文化や文明は進化とされ、それを「良いもの」として捉えることが常識となっている。しかし、その進化の過程で、我々は本来の人間らしいバイブス、つまり生命力や感性を忘れてしまったのではないか。この進化という概念そのものが、実は集団心理や認知バイアスによって作り上げられた虚構ではないのか。
例えば、ラップ音楽のように、もともとは反権力や自己表現の手段であった文化も、商業化されることでそのバイブスが汚され、本来の意味を失ってしまうことがある。ラップは、元々は社会の底辺にいる人々が自らの声を上げる手段であった。しかし、今やそれは商業音楽の一部となり、消費文化に取り込まれてしまった。このような現象は、文化の進化という名のもとで、本質的な価値が失われていく例である。
第三章:国家という呪縛からの脱却
ここで問い直すべきは、そもそも国家という概念が我々を縛りつけるものであるということだ。国家は人々の安全や繁栄を守るために作られたものであるが、その存在自体が暴力や支配の正当化を促進する側面も持っている。この「謎の集団心理」は、まさに国家や権力への忠誠心を生み出し、それが時には個人の自由や命を犠牲にする結果をもたらす。
国家や権力は謎の集団によって形成され、個々の自由やバイブスを無視しながらも、人々を支配し続けている。この状態から脱却するためには、国家や権力の枠組みを越えて、個々が真に自由な存在として生きることを模索する必要がある。バイブスを取り戻し、自己表現や感性を重視する社会を再構築することが、平和への第一歩となる。
結論:自由を取り戻し、新しい未来へ
国家という集団心理や認知バイアスに縛られ、戦争や支配を続けることは、もう終わりにしなければならない。私たちは、自分たちの中にあるバイブス、つまり感性や生命力を取り戻し、国家や文明が押し付けてきた進化という名のバイアスから解放されるべき時が来ている。まずは、誰も人を殺さない国を作り、戦争を終わらせる。軍隊を防災や治安維持のために再編し、暴力の時代から優しさの時代へとシフトする。
私たちは、国家という呪縛を超えた新しい未来を築くべきだ。それは、個々の自由とバイブスを尊重し、人間としての本質を取り戻す未来だ。この未来には、集団心理や認知バイアスではなく、感性と生命力が息づいている。
(HAL2024)