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シン人類コラム『正義と殺傷の倫理を巡る思索』

序章:正義は相対的か?

正義とは、人類が歴史を通じて問い続けてきたテーマであり、絶対的な真理として存在するのか、それとも相対的なものなのか、多くの議論が繰り広げられてきました。本稿では、この問いを出発点に、正義と殺傷、さらにはその線引きについて考察します。

正義が相対的である場合、それは文化や歴史、個人や集団の価値観によって定義が異なります。たとえば、ある国では死刑が「正義」とされ、別の国では「不正義」とされます。視点や背景が異なることで、正義の形は変化するのです。一方で、絶対的な正義が存在すると主張する立場もあります。人権や自然法といった普遍的価値観に基づく正義がその例です。しかし、普遍的な正義もまた、その解釈や適用方法において文化的バイアスが入り込みます。このように、正義は相対性と普遍性の間で揺れ動く概念であると言えるでしょう。

第1章:殺傷と差別の境界

「殺傷」は単に人間同士の争いに留まりません。生物全般、有機物、無機物にまで視点を広げると、私たちは常に何かを殺し、傷つけながら生きています。
食事一つとっても、動物を殺さないためにベジタリアンになる選択肢がある一方で、植物を食べることは許容されます。この選択には、「動物は痛覚や感情を持つが、植物にはそれがない」という理由がよく挙げられます。しかし、その線引き自体が「差別」と言えます。

人間が生きるために土地を切り拓き、環境を変えることも無数の生命を奪っています。この行為を「悪」とみなせば、極端な結論として絶食瞑想のような生き方しか残りません。しかし、それは生命活動そのものを否定することになります。

殺傷を完全に否定することができない以上、私たちはどこに「差別の境界」を引くのかを常に問われています。戦争では「国家」や「民族」で線を引き、ベジタリアンは「動物か植物か」で線を引きます。その線引きには正義が絡むことが多いですが、それが普遍的であるとは限りません。

第2章:勧善懲悪の倫理とその矛盾

日本の時代劇に見られる「勧善懲悪」の物語は、一見すると単純明快な正義の象徴です。悪を懲らしめることで、善が勝利するという物語構造は、視聴者にカタルシスを与えます。しかし、この善悪の基準は時代背景や作り手の価値観に依存しています。

時代劇のセリフ「てめえら人間じゃねぇ叩き斬ってやる!」は、悪を非人間的存在と見なし、正義を行使する行為を正当化します。しかし、これは現代の倫理観と矛盾します。現代では、人間同士の殺傷を避けるべきとする倫理観が広がっている一方で、国家間の戦争や正当防衛は許容される場合があります。この矛盾は、正義そのものが状況依存的であることを示しています。

第3章:殺傷を巡る倫理的選択

殺傷を巡る議論の核心は、どこで線を引くか、つまり「差別の基準」をどこに設定するかです。歴史を通じて、人間は次のような線引きを行ってきました:

  • 人間対人間:殺傷は基本的に「悪」とされますが、戦争や死刑制度では正当化される場合があります。

  • 人間対動物:動物の殺傷は、文化や宗教によって善悪の判断が異なります。

  • 人間対自然:環境破壊を伴う行為が許容されるのは、人間の利益が優先されるからです。

これらの線引きには、必然的に「差別」が含まれます。この差別が、正義と殺傷を複雑に絡み合わせる原因となっています。

第4章:現代における倫理的課題

現代社会では、情報や価値観が複雑に絡み合い、正義や殺傷を巡る倫理的判断が一層難しくなっています。𝕏のようなSNSでは、さまざまな正義が主張され、混乱を招くこともあります。「正義」を掲げる人々の声が増える一方で、その正義が他者を傷つける矛盾も見受けられます。

さらに、国家や集団の正義が暴力や戦争を正当化する場合があります。「自分たちの正義を守るために戦う」という論理は、人類が繰り返してきた悲劇の源泉です。このような状況を打破するには、まずは暴力や殺傷の連鎖を断つ努力が求められます。

結論:正義と殺傷の矛盾を超えて

正義とは相対的であり、時に普遍的な理想として掲げられることもあります。しかし、その実態は常に矛盾を孕んでいます。殺傷についても同様であり、人間は生きるために殺傷を避けられない存在です。その中で、どこに線を引き、どのような倫理を築くかが問われています。

本稿を通じて、正義や殺傷の問題に対する一つの視点を提示しました。最終的に必要なのは、矛盾を直視し、絶対的な答えを求めるのではなく、状況に応じた最善の選択を模索し続ける姿勢です。それが、人間としての在り方を問う第一歩となるでしょう。

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