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シン人類コラム『争いの滑稽さと無知の知 』― 人間であることの悲しみと希望

せっかく頭が良いなら皆んなのために使えば素敵なのに…
金の工面で一生懸命に頭を使い心が貧しくなったのかな…
それとも頭が良い事を自慢したいのかしら…
私も頭が良くなりたいと欲に溺れた人達が順番を待つよ…
まるで芥川龍之介の蜘蛛の糸かもね…
と言いつつストーリーを忘れてしまった…🐣

SonSinの𝕏投稿

SNSの中で目にする光景は、現代の人間社会を象徴しているかのようだ。頭の良い人たちが互いに論争を繰り広げ、その論戦を羨むように群がる人々。彼らはまるでゾンビのようだ。それは滑稽であり、同時に悲しい光景でもある。私はこの現象を目の当たりにしながらも、そこに手を差し伸べることはできない。それは、自分が何かを変えられると思うこと自体が「おこがましい」と気づいたからだ。

しかし、この「おこがましい」という気づきもまた正しいのか、正しくないのかは分からない。それは私が神ではないからだ。私たちは人間であり、限られた視点と力しか持たない。だからこそ、生きている間は「無知の知」――すなわち、自分が無知であることを認めること――からは逃れられないのだろう。

争いの滑稽さと悲しみ

SNS上での知的な争いは、一見すると価値のある議論のように見える。しかし、その背後にある自己顕示欲や相手を打ち負かしたいという欲望が透けて見えると、どこか滑稽さを感じざるを得ない。そして、さらにその光景を眺めていると、滑稽さは次第に悲しみに変わっていく。

人々が必死に言葉を尽くして「正しさ」を競い合い、その様子を羨ましく思う人々が群がる構図。それはまるで芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のようだ。たった一本の糸を巡って地獄の罪人たちが奪い合うその姿は、人間のエゴと自己中心的な性質を浮き彫りにしている。結局、糸は切れてしまい、彼らはまた地獄に戻る。その結末には、どこか現代のSNS社会と重なるものがある。

無知の知から逃れられない人間

私はこうした争いや群衆を眺めながら、「私にはどうすることもできない」と感じる。なぜなら、人間である以上、完全な正解を知ることはできないし、何かを解決しようとする行為そのものが自己中心的な行動になりかねないからだ。「おこがましい」と感じるのは、自分が他者を変えられると思い込むことに対する謙虚さの現れである。

だが、その一方で、この無力感は本当に正しいのだろうか。確かに、私たちは神ではなく、全てを正確に判断する基準を持つことはできない。しかし、だからといって傍観し続けることだけが最善なのだろうか。自分には何もできないという諦めが、むしろ社会の矛盾を助長する可能性もある。

「無知の知」とは、知識を追求すればするほど自分の限界に気づくことであり、それを認める謙虚さを持つことだ。ソクラテスが説いたこの概念は、現代の情報社会においても重要な指針となる。私たちはすべてを知ることはできないが、それでもなお学び続け、他者と共に歩む努力を怠ってはいけない。

何ができるのか

滑稽さや悲しみを感じる光景を目の当たりにしながら、私たちに何ができるのか。それは、静かに観察し、過剰に干渉せず、しかし必要な時には他者を支える姿勢を持つことではないだろうか。争いの中に飛び込むのではなく、自分が何を大切にしたいのかを見つめること。そして、SNSや情報社会の中で過剰に正しさを追求するのではなく、自分自身が「無知の知」を実践し、他者を否定しない態度を育むこと。

また、滑稽さを感じること自体を否定する必要もない。それは、状況を冷静に見つめる力の表れであり、あなたがその争いに飲み込まれていない証拠でもある。悲しみを抱きながらも、それを乗り越える力を持つのが人間であり、希望を見つける力を持つのもまた人間だ。


まとめ ― 人間であることの希望

私たちは誰も神ではない。完全に正しいことも、全てを知ることもできない。しかし、「無知の知」を抱きながら、それでも学び、他者と共に生きることができる。それが人間という存在の可能性であり、希望である。

争いの滑稽さと悲しみを感じるあなたの視点は、そうした可能性を探る第一歩だ。完全に解決できる問題は少ないかもしれないが、それでもなお考え続け、静かに行動することには価値がある。私たちは神にはなれないが、人間として生きることの意味を探し続けることで、少しずつ何かを変えられるのかもしれない

この文章が、同じような矛盾や葛藤を抱える誰かの心に届き、その小さな気づきの糸となることを願っている。

(HAL2024)

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