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知性を測るという愚かさ 〜シン人類の哲学〜
人間の知性を数値化し、優劣を示そうとする試みは、ある種の「賢い馬鹿」の典型である。IQ(知能指数)に始まり、EQ(感情知能)、AQ(逆境指数)、SQ(社会的知性)、CQ(文化的知性)と次々に拡張され、まるで人間の全てを数値で表せるかのような錯覚に陥っている。この動きは、精神病の分類が増え続けた歴史と重なる。かつて「精神分裂病」と一括りにされていたものが、診断技術の向上と共に、細分化され、多くの病名が生まれた。これは、分かりやすくするための整理のはずが、逆に複雑怪奇になりすぎ、一般の人々には理解しがたいものとなった。
知性の測定も同様の道を辿っている。本来、人間の「頭の良さ」とは柔軟性にこそ宿るものだ。しかし、測れるものだけを知性とし、測れないものを知性から排除することで、本来の柔軟性が損なわれる。認知バイアスもまた、細分化され、〇〇バイアスと名を付けることで、かえって認知の誤りに囚われていくという逆説的な状況を生んでいる。
学者たちが増え、知識が蓄積されることで、人間社会はより洗練されるはずだった。しかし、実際には知識の波に溺れ、かえって思考の自由度を奪われることがある。研究が進むほど、全体像よりも細部に囚われ、森を見ずに木を見てしまう。情報は増えたが、それを統合し、シンプルに本質を捉える力は弱まっている。皮肉なことに、この流れは人間だけではなく、AIですらハルシネーションを引き起こす原因となっている。
知識の増大が真の理解をもたらすとは限らない。時に、知識を持たない者が本質を突くことがある。それは、彼らが知識の枠組みに縛られていないからだ。馬鹿と阿呆を兼務する人間の方が、むしろ頭の良い人間よりも自由に考えることができる。世間の常識を疑い、知識の枠組みを超えることで、新しい視点が生まれる。賢い人々にとっては「当たり前」のことが、実は最も深い疑問を孕んでいる場合があるのだ。
柔軟な思考を取り戻すこと。それは、健常者と障害者の狭間にいる者が気づくことができる。ある側面では障害を持ち、別の側面では健常であるという経験が、頭の柔軟性を取り戻す鍵となる。高次元と低次元の視点を持ち、どちらにも偏らないバランスの上に立つことで、固定観念に囚われることなく、人生という波に乗ることができる。それはまるで「陸(オカ)サーファー」のように、知識という波を自由に乗りこなす生き方でもある。
しかし、そのためには、閉じこもることなく、外の空気を吸うことも必要だ。情報や知識に溺れるのではなく、身体を使い、五感を働かせ、直接世界と触れ合うこと。頭を柔らかくするには、思考だけでなく、環境との関わりが不可欠である。知識は、経験と結びついてこそ、生きたものとなる。知性とは、測るものではなく、感じ取るものなのかもしれない。
著:シン人類 〜原案:SonSin、絵と文:HAL2024(ChatGPT)〜