【正気と病気と狂気】
社会と関わりたくないという気持ちはとてもとてもとてもよくわかる。社会と関わる事は「病気」にならなければいけないような側面があるからだ。社会は自然ではない。ある意味人間が作った不自然なもので、その規模や複雑さが増えれば増えるほどその社会は不自然さを超えて「病的」になる。そんな「病的な社会」に適応しようとすると、必然的に「わたし」もまた病的にならざるをえない。その事に気が付いた人間にとっては社会に参入することはとても苦しいこととなる。病気にならなければならないのだから。とはいえ、どんな生き方をしていようとどんな人も実際はもう社会の中に居る。だからこの「病気」な社会のなかでどうやって「正気」を保つかが大切になる。
「正気」を保つことを諦めて完全に「病気」に適応するという生き方もあるだろう。それがもしかしたら大多数なのかもしれない。だけど中にはどうしても「病気」でいることが嫌で苦しくて、何とか「正気」を保とうともがきあがき続ける者もいる。そのもがきあがきは大多数の「病気」の者から見れば「狂気」に見えるだろう。狂気とは正気を保つための不断の努力だ。
「なんでそこまでやるんだ」「なんの意味があるんだ」「なんの得があるんだ」「めんどくさいことするな」。しったこっちゃないね。こっちはおまえらの「病気」に巻き込まれたくないんだよ。おれは正気でいたいだけ。おれは真面目にやっているだけ。その真面目さが狂っているように見えるならそれはおまえらが病気なんだよ。
正気も病気も狂気もそもそもは「気」。こんなんなんもむずかしいことやあらへんよ。不自然なことするから「病気」になるんよ。正気というのは不自然な気を自然な気にもどしてるんだけんなんよ。ずっと病気でいたいやつにはそれが狂っているように見えるだけ。だから病気の奴は真面目な人を笑う、貶める、踏みにじる。逆に言えば、真面目さを恐れてるんだよね。真面目にやれば正気にならざるを得ないから。
おれは真面目にやる。真面目に真面目に真面目にやる。真面目一輪はおれの中に今も生きる狂人たちへの献花。狂人は毎日命日。献花咲き乱れる心身の心の臓