子どもの水は排水溝と書いて東京サマーランドと読む
ついこの前、家に帰ったら「ポタリ…ポタリ…」と何かが滴り落ちる音がしていました。
こんなとき、鍾乳洞に住んでいたら「つららが溶けてるだけか」で片付けてしまえますが、私は鍾乳洞に住んでいないので異常な事態です。
しかしすぐに「水じゃん」と気付けた私は水回りをいくつか巡り…台所の水道から水が滴っているのを見つけます。
水道をひねり水を止めます。
こうゆうの、
本気に意味が分かりません。
なんのために水は滴り落ちるんだ…
と、思ってしまうのです。
全ての物事に意味があると思っているわけじゃないのですが、それにしてもこうゆうのは無意味すぎると思ってしまうのです。
じゃあでも101歩譲ったとして(犬の数だけ)例えばこの出来事に意味があったとします。
それは私に対しての啓蒙です。「次からはきちんと水道を閉めて出掛けよう」と私が思うきっかけになります。
でも、いつもきちんと閉めていますしこの日もそうでした。出掛けるときは何もなかったので閉め方が緩くて出掛けている間に開いてきて水が滴ってしまったのでしょう。
それにそんなことも年に1,2回あるかないかのことです。
そのためだけに落ちていった水はなんなんでしょうか?
水は小さな啓蒙のために失われたのです。
例えば、
私が「あ、ケムシだ」と触ろうとしたら向こうからすごいスピードで人が走ってきて「毒を持ってるケムシもいるよ!」と叫びながら教えてくれて、その人がそのまま勢い余って道路に飛び出てトラックに轢かれたらどう思いますか?
こんな小さな啓蒙のために…!?
と思いますよね。
ちょっと例えを間違えました。
人間の1人と水の1滴だと重さが違いすぎるので例えにならないのですが、小さな啓蒙のために失われるものという話がしたかったのです。
失うものに対して、得られる教えが小さい。
というかもはや無くても良かったのでは?くらいの出来事なので無意味すぎると思ってしまうのです。
別に私はリターンが少ないからと文句を言っているケチな人間ではないのです。
「鋼の錬金術師」で人の錬成に失敗して肉体が持っていかれることは等価交換だなあと思えます。
でも人の錬成に失敗して「毒を持ってるケムシもいるよ」とタトゥーを彫られたら 、、
考えただけでも意味が分かりません 。。。
まあでも私が色々と考えたところで意味もない犠牲はこれまでもこれからもずっとあるのだと思います。
そうなってしまったら私に出来るのは視点を変えることだけです。
私の視点から離れて、水の気持ちになるのです。
やはり私視点だと、ヒト目線なので、水は蛇口からコップに注がれて人に飲まれて人の命を動かすためにあると思ってしまいます。
でも水からしたらそんなことないのかもしれません。
もしかしたら台所の銀色のシンクにポタっと落ちるのが好きな水もいるかもしれません。暑がりな水だったらシンクに落ちた瞬間の冷たさは堪らないでしょうね。
それから、子どもの水は排水溝に流れていくことをウォータースライダーのようだと楽しみにしているかもしれません。子どもの水は排水溝と書いて東京サマーランドと読みます。
そうやって考えると、
ああ〜よかったなあ〜と花*花になれます。
この件に決着がつけられます。
結局、水の気持ちを代弁しているようで自分の気持ちの落とし所を見つけたいだけなのでした。
今日はここらで終わりです。
水の話をしたのでほんとは「そんな話も水に流してしまいましょう」みたいに上手いこと言って終わりたかったのですが思いつかなかったので、出来るぞ!という人はコメントに書いてぜひ私に夢の続きを見せてください。
終わりです。
(良転載→無料、悪転載→2000万◎)
2月は毎週日曜20時に更新します。
日曜は毎週23時からRadiotalkにて「メロン街2丁目で待ち合わせ」というラジオも生配信をしているので、よかったらそちらもよろしくお願いします。
では、ここまで読んでくれた方に感謝の気持ちを込めて私からお礼のライフハックです。
カフェで作業をしたいけどお腹もすいているときは、カフェでご飯を食べると眠くなってしまったりご飯と作業の区切りがダラダラとしてしまうので、家でご飯を食べてから行くか空腹で作業してご褒美にご飯を食べた方が良いです。
よい1週間を。