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サバルタンを語ることはできるか——映画『37セカンズ』における可変的身体と「移動」の主題


批評という力

『イメージ、それでもなお』という本に、一枚の写真が掲載されている。アウシュヴィッツでガス室送りにされた死体が燃やされているところを、仲間がガス室の扉に隠れて撮った写真である。当然ながらアウシュヴィッツにおいて写真を撮影することは不可能に近く、残った写真には歯磨き粉のチューブに詰められて外に出たものもあるという。映し出されている真っ黒なドアの枠からは、そんな状況においても「真実」を伝えようと奮闘したユダヤ人の置かれた状況の悲惨さ、そして覚悟が伝わってくるように思えてくるだろう。

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しかし我々は本当に、伝わってくるその状況を、そしてその覚悟を受け取ることが出来るのだろうか。彼らに対して感動なり、あるいは同情なりを試みるべきなのだろうか。彼らと我々を決定的に分断する写真のフレームの存在を忘れてはならない。写真に手で触れることが出来るのは、我々が離れた地で安住していられるからに他ならない。スーザン・ソンタグやジョン・アーリと言ったメディア論者の名前を引かずとも、我々はカメラ、眼差しにある種の権力性を認めている。街中に溢れる監視カメラには好感より嫌悪感を抱く人の方が多いだろうし、いくらZoomが参加者の顔を全て等面積で映し出していてうわべでは平等といえども、目線という権力性の問題を看過することはできない。
批評という行為も同様なのかもしれない、と思うことがある。批評にたえうる作品とそうでない作品がある。しかしその上で、批評を軽やかに超えていく作品というのもまたあるのではないかと思うこともある。先日見た『37セカンズ』はまさにそういった映画なのかもしれないと感じ、筆をとっている。

生まれた時に、たった37秒息をしていなかったことで、身体に障害を抱えてしまった主人公・貴田ユマ。親友の漫画家のゴーストライターとして、ひっそりと社会に存在している。そんな彼女と共に暮らす過保護な母は、ユマの世話をすることが唯一の生きがい。
毎日が息苦しく感じ始めたある日。独り立ちをしたいと思う一心で、自作の漫画を出版社に持ち込むが、女性編集長に「人生経験が少ない作家に、いい作品は描けない」と一蹴されてしまう。その瞬間、ユマの中で秘めていた何かが動き始める。これまでの自分の世界から脱するため、夢と直感だけを信じて、道を切り開いていくユマ。その先で彼女を待ち受けていたものとは…

公式サイトのあらすじを引用させていただいた。一つだけ重要な補足をせねばならないとすれば、女性編集長(藤本)はポルノ漫画雑誌の編集者であり、すなわち彼女が言った「人生経験」というのは、とりあえずは男性経験であり肉体関係である。『37セカンズ』を「障害者と性」の物語だと見なす意見もあるくらい大きく関わってくるテーマなのだが、個人的な見解では、それは鍵ではあるが本質ではないと感じている。

『37セカンズ』を見て1週間程が経つけれども、どのような感想を抱いてよいのか正直悶々としたままでいる。もちろん十人十色の感想があってよいし、それを可能にする厚みのある作品であるとも思う。しかしながら個人的には、そもそも感想を抱くべきかどうかさえ未だ整理がついていないというのが正直なところだ。車椅子に乗った経験もない人間が、本当に『37セカンズ』について語りうるのか。そもそもこのような文章を書くことすら、実はおこがましいのではないか。似た問題は実に様々な形で現代社会に現れていて、それぞれの立場に応じた主張・行動の応戦はとどまるところを知らずにいる。
そんななか、実は『37セカンズ』にこそ、このような社会的な階層構造を脱臼し得るヒントの一端が現れているのではないかと思うようになった。以下の文章で行っていることは、映画内のいくつかの要素を見ていくことで、そのヒントを浮き上がらせる試みである。言い換えれば、いくつかの星を線で結ぶことである星座を描き出すようなものである。言うまでもなく、どのような星座を描くかは鑑賞者の恣意性に委ねられている。しかしあくまで、存在しない要素を勝手に作り出すことは避けているつもりである。極力感想や感情に頼らず、丁寧に要素を追っていきたいと思う。
なお、文章中の映像のスクリーンショットは全て予告編のものを使用している。(とはいえ、個人的には予告編はあまりオススメしない。予告編見ずに本編を観ることを強く勧める)

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序 〜ユマの息苦しさと可変的身体〜

まずはじめに観客が度肝を抜かれるのは、ユマがシャワーを浴びるために服を脱いで(より正確には母親に脱がしてもらって)、カメラの前で完全な裸になるシーンに違いない。主人公のユマ役を演じる佳山明が実はオーディションを突破して今作初出演だということを知っていた観客は、このシーンで彼女の覚悟に魅入られることだろう。『37セカンズ』はユマの物語なのか、それとも佳山明の物語なのか。その両者の区別は冒頭ものの3分ほどで融解してしまい、カメラの暴力性という触媒によって、ユマの覚悟は観客の覚悟に変わる。生半可な態度で『37セカンズ』に臨むわけにはいかないという覚悟に。
大胆さということでもう一つ付け加えて言えば、実はユマが「出来ないこと」については映画中ではほとんど明示されていない。ユマが出生時に37秒息をしていなかったということは作中では終盤になって初めて分かることであり、脳性麻痺が身体のどの部分までに及んでいるのかについても、観客には一切教えられない。お風呂の入浴、食事、靴の着脱など様々なシーンによってユマの「出来ること」「出来ないこと」はとても丁寧に描かれているはずなのだが、(ほとんどの)観客にとって可能なのは、映し出される映像を頼りに、そのあまりに貧しい想像力で推察することただそれだけである。

さて、起となるパートにおけるユマの息苦しさを象徴するものとして、二人の登場人物との関係を取り上げないわけにもいかないだろう。一人はユマの母親である恭子であり、もう一人はユマをアシスタントとして雇っている売れっ子漫画家のSAYAKAである。
ユマは一人でなんとか浴槽に入ることは出来る。しかし先述のように、服を脱ぎ着したり、あるいは身体を洗ってもらうには同居している母親の力を借りなければならない。そんな母親が隠し持っている狂気的な(しかしそれでいて普遍的な)過保護さが物語における「転」に繋がるのだが、冒頭の入浴シーンにおいて、その狂気のよすがが絶妙に表現されている。例えば母親がユマを抱え込む形で浴槽に浸かりながら「そろそろ(髪)切らないとね」と語りかけるシーンでは、それに続くユマの「伸ばしたいな」という言葉を無視するかのように「汗疹出来てる」と返し、ユマの胴体を鎖骨のあたりでがっちりと抱える。この一連の流れだけで、ユマの自己決定権がどれほどのものかが容易に想像出来るのである。また別のシーンで「今日はワンピース着たい」と言うユマに「ママも一緒に行っていいならワンピース着てもいいよ」と返す場面もあるが、その時の母親の目は娘には向いておらず、全身鏡の前でよそ行きの服を合わせる自分自身にしか向いていない。

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そうしてやっと出かけた先が、漫画家SAYAKAのサイン会である。このワンピースの直前のシーンでは既にSAYAKAのオフィスが舞台になっており、そこでユマがSAYAKAのアシスタントとして、より正確にはゴーストライターとして薄給で働かされているであろうことが描き出されている。2人だけのオフィスの机は向かい合う形にはなっているものの、その間に巨大なMac Proのディズプレイが鎮座されていて、二人の視線はほとんど交差することはない。車椅子を動かしてせっかく訪れたサイン会でも、SAYAKAはユマを見つけて激怒する。ゴーストライターという関係性がバレたら「私たちは終わり」と言うSAYAKAが、実は自分のことしか心配していないのはあまりにも明白なのだ。

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そんな押し込められた生活の中でユマが変化を望むことは、誰にとっても当然のことなのかもしれない。それを示すかのように、冒頭では可変的な身体のイメージがいくつか登場している。例えばサイン会に向かう途中でユマが乗る女性専用車では、座席でメイクをする女性が執拗に映し出される。差し当たりここに「ペルソナ」という概念を当てがった読みをすることは出来るだろう。あるいは、オフィスでの素のSAYAKAと、サイン会やYouTube動画における外向けの「盛った」SAYAKAの対比は目を見張るものがある(個人的な感想だが、両者が同じ人物だとは一見信じられないほどだった)。
これらをまとめた時に「仮装」ということが出来るとすれば、より直示的な身体交換のイメージもある。貴田家(ユマの名字は貴田である)に届いたデッサン用の市松人形がそれである。市松人形といえば本来的には着せ替え人形なのだが、映像に映る人形はどれも首と胴体が接着されておらず、首がすげ替え可能なホラーチックなイメージをも喚起させる。そこにユマの置かれた境遇を重ね合わせることは、果たして突飛な読みなのだろうか。
ここで物語中盤のあらすじを一部先取りしてしまうと、この息苦しさを克服するために、ユマはいくつかの漫画出版社に電話を掛けることになる。その中で藤本というポルノ雑誌の女性編集者と出会い、そこで人生経験の少なさを指摘された結果、ユマは夜の街で彼女なりの冒険を始めることとなる。その冒険の中で、ユマは自身をよく理解してくれるデリヘル嬢の舞と出会い彼女と仲良く出掛ける仲にまでなるのだが、その際にユマはドレスやメイクといったおしゃれを教えてもらう。その「仮装」をひとしきり楽しんだ上で、ユマは自分の生い立ちと向き合う決心をする。すなわち、生き別れてしまった父親を探す旅に出るのである(これだけ書くと話が急展開を迎えたように思うだろうが、実際には父親の存在の伏線は観客の目に見える形で与えられている)。
ペルソナ、すなわち「仮面」をつけることが否定されているということでは決してない。しかしながらユマが仮面を脱ぎ捨て、その下に隠れる顔と向き合う覚悟をしたということもまた重要なポイントである。自己のアイデンティティ、すなわち自分という存在の必要性に執着したのが近代であった。その近代批判として、実は個は何にでもなりうるという楽観的な思想がポストモダンにおいて生じた。しかしながら、実は仮面を意のままに付け替えるためには、相当の自由さが前提となっているとしたら? ユマだけではなく我々にも、この問いは大きく降りかかっている。

破 〜ユマの素朴さと移動の主題〜

近年流行っている体験型アトラクションの一つに、リアル脱出ゲームというものがある。アニメとコラボしたり、またある種のブランド戦略もあって成長している分野であるが、実は人気の本質的な理由はそのまま「脱出」にあるのではないか。すなわち、誰しもが管理された社会が偽物だと感じていて、そこからリアルな世界へと脱出したいと望んでいるのではないか。管理された世界の外には危険が多いが、その危険はまた魅惑として冒険者の目に映るものだ。しかし、このようなあまりに素朴ともいえる世界観には同時に懐疑の目を向けねばならない。管理された社会が本物ではないと、果たして誰が断言出来るのか。
その意味では、ユマが取った行動も素朴だと言ってしまえるのかもしれない。編集者の「経験すれば?」という意のセリフもあまりに素朴だし、それで歓楽街の男娼のもとに単騎赴くユマも素朴だ。その交渉事はうまく進まず、ユマは落ち込んでホテルを去るのだが、その途中で、彼女のことをよく理解してくれる3人と出会う。特にデリヘル嬢の舞、ホームヘルパーの俊哉の2人は直接的な援助を施すという点で、ユマにとっての救世主となる。都合の良い出会いが偶然引き起こされるというのもまた素朴で、このあたりが『37セカンズ』に対する一種の批判として機能していることも理解出来ないわけではない。
しかしながら、ユマの素朴さというか、純粋さを担保する印象的なシーンがある。舞に車椅子を押してもらって女性向けアダルトグッズ販売コーナーに来たユマが、クリアブルーのハリボテを手にして「きれい」と口にする場面である。場面を想像する限りではややおかしみのあるシーンだと思うだろうが、実際に見るとそこに切実な純粋さを認めることが出来るのではないだろうか。というのも、ユマにとってその性的なアイコンは、自らの壁を打ち破るための翼に過ぎないからである。ここで「欠如を埋めるものとしてのファルス」といったような精神分析的な分析手法を持ち出すことは無粋ではないかという気すらしてくるし、おそらくその直感は正しいだろう。

カーゴ・カルトという招神信仰をご存知だろうか。直訳すれば「積荷信仰」であり、先祖の霊が船や飛行機といった乗り物を通じて、近代的な文明の利器を送ってきてくれるとする信仰のことを指す。この信仰自体が非常に権力的な構造の上に成り立っていることはよく知られている。すなわちこの乗り物とは戦争時にメラネシアを植民地化するために来た白人が乗ってきたものであり、彼らが贈り物だと思っているものは単なる懐柔の道具に他ならない。現地の人々の中には、その贈り物を待ち続け仕事と生活を放棄した者もいるほど、この信仰は彼らに影響を与えていたということである。そのうちに彼らは、乗り物を呼び寄せる占いを試みるようになる。それは乗り物を待ち続ける受動的な態度から、自ら呼び出す能動的な態度に転換したということが出来るだろう。
『37セカンズ』の中にも移動のモチーフは様々に現れている。車椅子、バス、電車、飛行機(物語の終盤の舞台はタイである)などの交通機関など枚挙にいとまがないのだが、ここでは一つだけ着目しておくことにしよう。それは古谷という男の家にひっそりと立て掛けられていたサーフボードである。ちなみに古谷はユマにとって父親の弟に当たる人物なのだが、彼女は会った当初古谷を自分の父親として誤解しており、話の途中の違和感から、父親でないと気づくことになる。このサーフボードは物語に全く影響するものではなく、背景に映り込んでいる一オブジェクトに過ぎない。しかしながら、移動というテーマを『37セカンズ』に読み込んだ時、このオブジェクトに着目しない選択肢は考えられないように思われる。
作中で父親の外観が出てくるのは唯一彼がユマに送ってきた葉書のイラストだけで、小さいユマを「たかいたかい」している様子が映っているだけである(なお映像効果により、葉書のイラストはアニメーションとして動くようになっている)。そんな父親については「自由人」という評価が下されるのみで、何をしていたのか、なぜユマの前からいなくなったのかも含めほとんど明らかにされていない。しかし父親のアニメーションと母親の描写を対比させることでもう一つ読み取れることがあるとすれば、それはユマがどちらを求めているかではないだろうか。母親の描写で気になる点として、バスの中やユマのリハビリの付き添い待ちの際にずっと本を読んでいることが挙げられる。ずっと俯いて活字にのめり込む描写は、父親がユマを「たかいたかい」するシーンとはっきり明暗分かれて表現されている。そう、そもそもユマは車椅子生活であり、歩道では周囲の人よりもかなり目線が低い位置にある(撮影するカメラのポジションも低く設定されているのはおそらく意図的だろう)。そのため、空を飛ばせてくれる父親はまさに自由の象徴となる。
しかし、それもあくまで父親という存在に依存した虚構の自由であることはすぐに自覚されるだろう。いや、自覚しているからこそユマは苦しんでいるのではなかったか。そういった状況を打破するためのイメージが、まさにサーフボードなのではないか。波にうまく合わせつつも乗りこなしていくこと。迫りくる様々な出来事を一旦は引き受けつつ、それでいて自分の芯を貫き通すこと。サーフボードのイメージは、自らの置かれた状況を肯定的に乗り越えていこうというユマの決心を先んじて表象する。古谷から父親が亡くなっていること、そして生き別れの双子の姉の由香がタイで学校の先生をしていることを聞いたユマは、その決心に基づき、ホームヘルパーの俊哉と共にタイに飛ぶ。

急 〜ライフ・オブ・ラインズと電車の窓〜

タイで由香と出会ったユマは、そこで姉だけが知っている父親の話を聞く。自らの存在が家族の現状に大きく関わっていることを再認した彼女はそこで、「自分の障害がもしなかったら、家族は別れずに済んだのではないか」という思いに囚われてしまう。またあるいは、次のように独り言つ。
「もし私が先に生まれてたら、由香さんが私みたいになってたのかもしれない。」
「もし私が一秒でも早く呼吸ができてたら、私も彼女と同じように自由に生きれたのかもしれない。」
双子の姉という存在、それはユマにとっては「こうであり得た自分」に最も近い存在である。彼女の言葉の通り、実は由香とユマを分けたのは、単に生まれる順番の差でしかなかったのかもしれないのだ。
物事には全て原因がある、とするのが因果論の立場である。例えば今、頭上のクレーンから材木が落ちてきて大怪我を負ってしまったとする。その理由をいくつか考えることは容易い。材木の当たりどころが悪かったからかもしれないし、それ以前に材木を束ねる紐が劣化していたからかもしれない。あるいは紐を偶然飛んできたカラスがついばんでしまったからかもしれない。しかし、それは感覚的には、他ならぬ自分がそうなった理由には決してなり得ない。自分が1秒早く家を出ていればあの横断歩道で止まることもなく、結果としてちょうど材木が落ちてくることはなかったに違いない。
生まれる順番の違いについても、それを胎内における双子の位置や、遡れば受精のタイミングにまで理由づけすることができるかもしれない。もっと言うならば、染色体の構成があと少しでも違えば、呼吸器は1秒早く動いていたかもしれない。しかしそこに、彼女でなければならなかった明確な理由は一切存在しない。いや、より正確には、ユマでなければならなかった明確な理由は一切存在しない。
そしてユマは、それを絶望だとは捉えない。独り言の最後は、「でも、私でよかった」という、ある種の肯定的な受け止めであるように思われるのである。今や、ユマは他の誰になることも出来ない。少なくともその始まりの段階、すなわち線の始点においては、ユマは他の誰かである可能性があった。同時に、誰かがユマである可能性もまたあった。しかし線が一度進み始めれば、残された選択肢はその運命を引き受けて行動していくことしかないのかもしれない。
It’s written——それは運命だった、とでも訳せばよいだろうか。線は既に描かれていて、我々は「線おに」のように、そこに片足をつけながら生きていくほかない。その制限がある以上、あらゆる批判も抵抗も、自らの手の届く範囲以外にはなし得ないのかもしれない。そして唯一可能に思われる「自分はこうだ」という主張すらも実は階層構造の再強化の格好の餌になることを踏まえれば、残された道は沈黙しかないのだろうか。
しかしながら少なくとも、始点はどこに取り得る可能性があった。我々に可能なアプローチのヒントは、おそらくそこにある。制度の変革に概念は役に立たないかもしれない。いくつかの問題含みなのは承知の上で、『37セカンズ』に見た語りの可能性をここに書き記しておく。

クライマックスで、タイの車窓風景を眺めるユマの横顔は美しい。それは今まで目にしてきたパソコンのモニターや漫画のフレームを通して映るフィクショナルなムービング・イメージではなく、新たな境遇に向かって移動するユマの、非常にアクチュアルなイメージなのである。

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