心に生きはじめる
映画「わたしは光をにぎっている」を観た。
感じたことを。
音。
特に水の音と、人の声が頭に残っている。
お風呂のお湯の中に腕まで入れ、光をにぎったあと、水をすくう音
その後、蛇口を勢いよくあけたときの強い水音
海の波の音
祖母の声、電話での声
居候先の親父さんが隣のお風呂で泣いているだろう、しゃくりあげる声
映画は不思議だ、と思った。
現実にあるものを現実よりも際立たせる。
暮らしている中で、こんな風に音が際立って聞こえることはあまりない気がする。
いやあるのだけれど、通り過ぎていくのかもしれない。聴いていないだけかもしれない。
親父さんのしゃくりあげる声。
お風呂の中で私は何度も泣いたことがある。
だから自分の音としては記憶している。
でも、他人のそれは聞いたことがない。
本来なら滅多に聞かない、
自分以外のだれかがお風呂で一人で泣く音。
銭湯という場所が、
何も纏っていない澪が、
親父さんの内面がながれこんでくる状況をつくっている。
その音をきいていて、
"銭湯の親父さん"ではなく、
確かにここで生きてきた、唯一無二の人なのだと、そう思わずにはいられなかった。
その親父さんが、
女性が着替えているところをのぞくおじいちゃんについて、澪が憤ったとき、
「じゃああの人はこの銭湯にこられなくなったらどこに行けばいい?」といった意味の台詞を言う。
シーンとして親父さんが泣く前なんだけれど、
思い出すとなんだかじんときてしまう。
唯一無二の親父さんが
銭湯にきていたお客さんを唯一無二と捉えているから、なんだと思う。
このあたりがまだ整理できない。
というより、整理しないまま、大切に保存して置けたら、と思う。
不倫したり、酔っ払ってもどしたり、アルバイトが続かなかったり、好意を言葉にできなくて間接的にあたったり…
なんといったらいいんだろう、
世の中で"本題"とされないひとつひとつの事柄の背景にもまた、(背景にこそ、と書くか悩む)、
その人を唯一無二たらしめているなにかがある。
不倫や覗きをする人と距離を置こうとする澪の姿と合わせて、どんなメッセージだったんだろう。
気になっている。
ああ、あのシーンも好きだなあ。
澪が銭湯を掃除している姿を捉えたシーン。
確かに私がみているのだけれど、
親父さんの目になった気がした。
親父さんの姿は一つも映っていないのに、
親父さんの銭湯や澪への大切な気持ちが、その錯覚によって、私に流れてくる。
映画ってすごいなあ…
私は言葉がすきだ。
文字がすきだ。
宝箱に一つしか入れられないなら、
これまで出会ってきた言葉、
自分が紡いできた言葉、をいれると思う。
(ひとつじゃないか)
そのくらい世界を言葉で解釈してきたし、
言葉にすること、言葉を読むことで何度救われたことか。
でも最近映画に出会って思うこと。
聴覚や視覚での出会いからうまれる感情の味わい深さ。
言葉にすることで(話すことで)自分自身から離すことができる、とよくいうけど、
それに加えて私は、保存できる、という解釈をしている。
対して、言葉にならないものは、
心に生きはじめる。
そして、心に生きはじめると、その"生"は自分の意思では制御不能なんだ。
「わたしは光をにぎっている」が
心に生きはじめている。