ソファを背もたれにしてクッションに頭を預けてフローリングの床に半ば寝そべる。 夕飯を食べ終え風呂にも入り、さっぱりとして気持ち良くなり後は寝るだけ。 ソファ横に積み重ねられた本の中から一冊取り出しページを繰る。 一日働いた体を休める時間。 まったりと自分時間を楽しんでいると、いつもそれは破られる。 階上から重い足音で階段を下ってくるとキッチンの照明を点ける。 煌々とした白く眩しい光を本で遮ってはみる。 水道から勢いよく水を出し、洗剤をタップリ使い泡まみれのスポンジの鈍いキュ
『フレードリッヒ2世の実験』という話を知っている人はどれくらいいるのだろうか? 残酷な実験。それに似た環境に身を置きながらも生きられた、いわば“サバイバー”には隠れた援護者がいたのだと。 生きながられた事への感謝もありながらも「何故生まれさせられたのか?」というような葛藤、憤りが拭いきれない。 “闇”というか“黒い”何かは消え去る事なく、澱のようにある。 「ポジティブですね」と言われる事も多々ある。 “闇”があるからこそ“光”に擬態出来るのかもしれない。 たまに蠢き出す“
毎日ニュースを見るようにしているけれど、今日のトップニュースはキツイ。我が子に薬と不凍液を飲ませて殺すとは…虐待をしたり子殺しをするような奴は、同じ目に合わせればいいんだ。子は親の所有物では無い。自分の勝手で失くせばいいってもんじゃない!
「願い事をなんでも叶えてあげよう」 そう言われたら何を願う? 例えば「好きになった人から愛されたい」と願ったとする。 そして、好きな人が出来て、その相手から愛されたとする。 その時に頭の片隅に「この人は、私が願ったから私を愛してくれているだけなのだ」という思いが過らないだろうか? 相手が、相手の本当の気持ちで愛してくれているのか、それとも私の願ったから愛してくれているだけなのか?と。 好きになった相手から愛されたいという願いはあるが「なんでも叶えてあげる」と言われても、その
「今度の木曜日に行きます」 ある展覧会の開催ポスターの写真を添えた投稿してみたらどうなるだろう。 顔出しをしていないSNS。近い未来の行動を晒したところで“私”が見つかるはずはない。 けれどもモノ好きな誰かが、つまりお互い顔も本名も知らないSNS上の繋がりしかない人がそこに現れるかもしれない。 もちろん現れたとしても相手は私が分からないだろうし、私も誰だか分かるはずか無い。 後日、あるいはその場で、展覧会の写真を投稿して「あ!あの場にいたのだ」と顔も名前も知らない誰かを認識す
お金を使わなければ貯まる。 当たり前の事だけど、貯める目的は? 将来の為。つまり「こうしたい」という目標を目指して金額を増やしていく。それは大事。 でも、ふと思った。 描いていた将来は来るのだろうか?と。 明確に「そうしなければならない」というゴールがあるならば、それに向かっていけばいい。 ただ「貯めておかなければ不安だから」という気持ちだけで、使う事なく貧相な生活をしていて幸せなのだろうか? 節約をすることが楽しみになっているならば、それはそれでいい。 しかし「貯めなければ
新年だし夢でも書いておこうか? お金を稼げる資格も経験も無いけれど… お菓子作りや料理を作ることは好きなのでカフェとか喫茶店みたいなこと出来たらいいな あと手芸と本も好きなのでニットカフェとか図書館みたいなカフェとか面白そう 面白い話は出来ないけれど傾聴は好きかな 「ねえ聞いて聞いて!」とか言ってくる人にコーヒーを出しながら「どうしたの?」なんて聞くのが楽しそう 実際に経営するのは大変 宝くじでも当たって生活の心配が無いなら、趣味の延長でそういうお店を開けたら最高! なぁん
noteには即興で思いついたコトを文字にしている。取り止めのない思考の垂れ流し
私は何が出来るのだろう 私の取り柄は何だろう 得意なことは家事と人の話を聴くことくらい 真面目で面白みのない人間 特にコレといった仕事をしてきたわけでもなく 漫然と日々を過ごしてきただけの、つまらない人間 お菓子作りや料理を作ることは好きだけれども、「美味しい」と食べてくれる人がいない だから作る気が失せて「作りたい!」と思うモノも思いつかなくなってきている つまらない こんなことでいいのだろうか? 誰かの「美味しい」とか「コレは口に合わない」ってのが聞きたいって思
『毒親』って言葉があるけど 『親』になったから“毒”がついたんじゃなくて 元々『毒』のひとが“親”になっちゃっただけなんだよね 『毒』の人は自覚することないと いつまでも解毒も無毒化もできないから ずーっと『毒』の人 たぶん死ぬまね気づかないよね 自分が『毒』とは 『毒』には当たりたくないよね だから『毒』って気がついたら 逃げて 無毒化や解毒できる人なんて そうそういないから 立ち向かわず 逃げるのが1番 そう思う
『人を呪わば穴二つ』 誰かを貶めようとするならば、その報いを自分も受けるだろうという諺。 誰かを呪う事はしないが、自分の幸せを願うことが誰かを呪う事に繋がってしまったならば、私自身にも良くないことが降りかかるのだろうか? 「幸せに生きたい」そう願うだけなのに… 先に呪いをかけたのは相手ではないのだろうか?私は充分過ぎるほど苦しんで辛い思いをしてきた。と、思う。それが相手に跳ね返っているだけではないのだろうか。 いつになれば楽になれるのだろう。 ただ「幸せ」と想って生きていたい
「もう答えは出ているじゃないか」 そう言われてハッとした。 問題の詳細を知らない第三者に、内容をぼかして相談ともいえない雑談をしたら、そのような返事をもらった。 自分では認めたくなかったから、気が付かないフリをしていた。 気づくことなどせず、問題の核心から目を背けて夢見心地のままでいれば幸せだった。 もうとっくに冷めた感情が侵食してきているのに、それを認めるのが怖かった。 騙されて利用されている事は既にわかっていた。それでも良かった。 何も無い日々よりも、刺激が欲しかった。
昔、クラスメイトからある日突然『いい子症候群の君へ』みたいなタイトルの本を貰った事がある。(古い記憶なのでタイトルは曖昧)「ありがとう」と受け取り、本好きな私は早速目を通した。 本を渡したその人は「なんとかしてあげなくては」という気持ちから、私がその本を読むように仕向けたのかもしれない。 「いい子ね」 その言葉はある種の呪い。 言う側の人間の「いい」判定から外れたら「あなたはいい子(人)じゃない」と悪意を放つ。 そんな呪いを浴び続けたらどうなるか? “自”を保てない人形にな
信号待ちをしている時に、横断歩道の向こう側で自転車の荷台から段ボールを落としてしまって困っているご婦人を見ました。 信号が変わって横断歩道を歩き出した頃には、その人は自転車を止めて段ボールを拾おうという体勢になってました。 私と連れだっていた人は、目の前の出来事に全く無関心で、話に夢中なまま通り過ぎようとしてました。 「ちょっと待って」と話を止めてご婦人の手助けをすることもできたのに、私は目をやるだけで通り過ぎてしまいました。 “困っている人を助ける” 偽善かもしれないけれど
容姿の美醜に拘る人は、それが失われた時にどのように思うのだろうか? 生きているものは時間の経過ともに変化をしていくものである。 それに抗おうとする姿を否定するわけではないが、価値を“若い”に求めるのは如何かと。 また見かけの美を求め飾り立てる様は、春をひさぐ事と同義に感じる。 自分の価値を高める為に美しくと、それ自体は悪い事ではないのだけれど、そこに重きを置く人を見る度に哀しさを感じてしまう。 恵まれた容姿を持ち、尚且つそれを保つことに必死になっている様は滑稽とも思える。
「最後の食事に何を食べたいですか?」 そういう話題がでた。 「母の料理を食べたい」 そう答える人が何人もいた。 実際、ずっと食べ慣れている母親の手料理を最後に味わいたいと願う人は多いことだろう。 それを願うことが出来る人を、私は羨ましく思う。 私が母の手料理といって思い出すのは碌でもないものばかりだ。 まず頭に浮かぶのは、腐って酸っぱくなった味噌汁。 金はあるがレパートリーはないから度々出されるスキヤキや刺身の盛り合わせ。唯一のまともな手料理っぽい物は八宝菜の乗ったご飯。