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陸軍中野学校の跡地から -ホー・ツーニェン「百鬼夜行」-

私は、「のっぺらぼう」の後輩である。

ホー・ツーニェン「百鬼夜行」では、100もの様々な妖怪の行進が繰り広げられている。ギャラリーガイドには妖怪らの一覧が載っている。83番の「若いのっぺらぼう」は、展示室3での映像作品『1人もしくは2人のスパイ』でも主要な題材となった。

ツーニェンは、陸軍中野学校で諜報員としての教育を受けた青年らを「のっぺらぼう」という妖怪として蘇らせている。

私は、「のっぺらぼう」の後輩である。私は「のっぺらぼう」が生まれた陸軍中野学校の跡地に建てられた大学で4年間の生活を送った。

大学をはじめとし、一帯は中野四季の森公園として再開発されているが、70年前のこの地では、諜報活動を行うスパイを要請する機関、陸軍中野学校があった。3000人ものスパイ候補たちは、”外国語を話し、暗号を解読し、変装し、潜入し、武器を使い、爆発物を扱い、車や飛行機を操縦し、ゲリラ戦を戦うことができる”(ギャラリーガイドより)ようになるために、教育を受けていた。

大学生活で、この事実を全く知らなかったわけではない。ある先生は中野の変容を語る中で、ここの一つ前は警察学校で、そのもう一つ前は陸軍によって使われていたと言った。私たちは、そういった程度の知識が伝えられていた。

この大学のキャンパスはとても新しく、とても快適だった。大学の周りにある公園は、セントラルパーク=センパと呼ばれ、私たちはそこでよく過ごした。昼休みに、併設されているマクドナルドでハンバーガーを食べたり、空コマでぼんやりしながら、遊ぶ子供たちを見たり、夜、芝生の上やベンチの上で缶ビールを飲んだりした。

70年前のことを知りながらも、私はほとんど理解していなかったのだと思う。ツーニェンの作品を観ながら、私は中野での4年間を思い出していた。ぐるぐると回り、じっと立っていられなくなる感覚があった。


陸軍中野学校とマレーの虎 (ツーニェンの関心から)

ツーニェンは、妖怪「のっぺらぼう」、すなわち陸軍中野学校で教育を受けた青年らを、マレーでの戦闘、「マラヤの虎」、「ハリマオ作戦」といった流れと結びつけている。ツーニェンが陸軍中野学校に注目したのは、他の作品でも主要なテーマとして扱っている「マレーの虎」と密接に関係するからであろう。

2匹=2人いる「マレーの虎」の片割れ、谷豊は、日本人盗賊としてマレー地域での英雄であった。1940年、中野学校の出身者6名たちは、藤原岩市少佐が長である「F機関」に所属していた。彼らはマレー方面での秘密工作として、「マレーの虎」谷豊を諜報員として勧誘する「ハリマオ作戦」を行った。このように、中野学校を出た「のっぺらぼう」たちは、マレーの地で虎と深く関わっていたのである。

もちろんのこと、私はこの事実(虚構も混ざりうる)に対する知識は全く持っていなかった。70年前、この中野の地で、多くの「のっぺらぼう」が生まれた。このことのみならず、彼ら「のっぺらぼう」の多くはアジアに送られ、諜報活動やゲリラ活動を行った。この足音が、私には聞こえなかった。本当は鳴り響いていたはずなのに、きれいに整備されたキャンパスと公園の下で蠢く戦争の記憶を、私(たち)は聞こえないふりをしていた。


顔をなくすことの現代性

ツーニェンはなぜ、陸軍中野学校の若者を「のっぺらぼう」して妖怪化したのだろうか。この問いは、戦争加担の無意識性といった問題をわかりやすく媒介すると同時に、学校教育の姿への警鐘という問題にもつながっている。

顔を失ってしまうことは、まず、戦争への無条件的介入を考えなければならない。顔をなくすということは、意志や主張をなくすことに近い。イデオロギーへの加担は、あまりにも巧妙に、本人が気づかないところで行われる。よって、「のっぺらぼう」たちは自ら進んで「のっぺらぼう」になったのではない。あっという間に顔を失い、気付かぬうちに「のっぺらぼう」となっていたのだ。

そして、「のっぺらぼう」は、1938年〜1944年というある特定の時代にのみ出現するのではない。学校教育というそのものにも、「のっぺらぼう」の出現は予期されている。もはや私は、冒頭に明言したような”「のっぺらぼう」の後輩”ではない。むしろ、私自身が「のっぺらぼう」なのだ。

私個人との奇妙な結びつきから、ツーニェンの作品は、大学という教育機関への問題意識を喚起する。私はまずこう考える。学校教育は、顔をなくすために行われているのではないか。諜報員になるための教育と、現代社会で活躍するための教育は、どちらも「のっぺらぼう」を生む契機となる。

もちろん現代おいては、多元的な選択肢が比較的自由に用意されているため、顔を無くさないように抵抗することも容易い。しかし、多くの場合、顔を無くしてしまった方がうまくいくことが多いことも事実だろう。学校教育において生み出された「のっぺらぼう」は、社会の中枢を行進する。そして老いてもなお「のっぺらぼう」として、列をなしている。


陸軍中野学校の跡地で過ごした4年間、私(たち)は気付かずに「のっぺらぼう」になっていたのだ。70年前の出来事を知らずに、自分達は恵まれ、豊かなキャンパスライフを過ごしていると思っていた。しかし実は、それは70年前と同じように、顔をなくすための過程に過ぎなかったのだ。展示室2の作品『36の妖怪』の最後に告発されるように、本物の妖怪は私自身なのだ。私こそ、「のっぺらぼう」である。でなければ、何であろうか。


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