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自信と全身全霊と影と死

今日も、Twitterにあげた文章をまとめておこうと思います。これは今日車を運転しているときに、ふっと舞い降りてきたもので、家に帰ってきてから書き留めたものです。


根拠のない自信と言われることがあるけれど、それは本当の自信ではなくて、ただ気づきが浅いだけということのように思われる。基本的に自信には根拠があるものである。人からの評価、収入や預金残高、経験であったり、その人にとって価値があると思われるものの裏打ちによって自信は成り立っている。

しかしそれらの根拠が揺らげば、自信は崩れ落ちてしまうことから、それは本当の意味での自信ではないという事になるだろうと思う。そう考えていくと自信って何だろうって思うよね。常に条件があっての自己信頼でしかないという事になってしまうからね。

そう考えてくると、自信には段階があると考えるのが適切なのかも知れないと思ったりもする。たとえば物を持つことでの自信。他者からの承認による自信。これらは根拠が外的要因にあるから、比較的浅い自信と言えるかも知れない。

自分の経験により培われた自信となると、根拠は自分の内側にあるため、自信としてはより深いものと言えるかも知れない。しかし、いずれにしても、経験値以上の出来事が起こるときには、自信を保てないから、未知の領域への挑戦にはむしろ慎重になるかも知れない。

それでもそのような未知の領域にも挑戦するというのが、根拠なき自信と言われるものだけど、これは最初に触れたように気づきが浅いために恐怖を感じないということであって、本当の意味での自信とは言えない。そういう自信の下にはそこはかとない罪悪感や不安があったりするからね。

そしてこれは一昨日の舞踏の稽古の中で気づいたことなんだけど、もしかしたら自信ということの最終形態に通じる何かなんじゃないかと思ったんだよね。それは歩行の稽古の時のことで、足の裏を感じていたときに、あちら側に、こちら側と同じだけの存在する何者かがいると感じたんだよ。

それは影みたいだけれど、僕という存在の反映とも言えるし、逆に言うならばそれが僕を裏側から支えてくれている存在であるとも言えるということ。それは遠心力と向心力が釣り合っているというのと同じように、対化であり、一心同体みたいなものかも知れない。

それに気づいたことで、たぶん表側の僕の存在の質が深まったのだと思うんだけど、そのあとは歩行のモードが変わり、見ていた人からは表情もエネルギーも変わったと言われたわけだ。それは、その影の存在に気づき、その影とのコンタクトを最優先に意識するようにしたからなのだろうと思う。

その時に気がついていたことは、前に進むということは、未知の領域に入っていくということであり、その時にその影との一致があれば恐怖が消えるということ。全身全霊という言葉が象徴することは、その影の領域も含めての自分であること。それを思い出すときに全身全霊は起こるということ。

おそらくそれは死の次元。死をまとうと不安や恐怖が消えるということ。きっと死が存在の本質だからだろう。そこに意識が到達したら、存在そのものが根拠となり、そこで生じる自信は揺らぐことのない自信になる。だからきっと全身全霊は自信なんだろうね。

なんかね、そんなことをふと思ったのだ。

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