人生を謳歌する
この坂爪圭吾さんのノートを読んで、「謳歌する」という言葉が眩しく感じた。
湧き上がるエネルギーとともに生きていた時というのは、まさに謳歌していた時だったと言えるのだろう。
たしかにそうしてきたとも言えるのだけれど、ここに来てちょっとしけってしまっているのを感じていて、どうしたものかと戸惑っていた時に、この記事を読んで、はっとしたということ。
記事の中に出てくるC様の言葉はたしかに冷たいし、そこには麻痺の匂いがする。自分が操縦席に座ることなく、操縦桿を握らないでいると、人は麻痺していくのかも知れない。
人生を謳歌するには、リスクの中に自ら飛び込んでいくしかない。
思い返せば、インドに行くと決めた時、バリに行くと決めた時、アメリカに行くと決めた時、田んぼをやると決めた時、いずれの時も僕はワクワクしていた。
リスクはたしかに大きかったし、あてもなかったし、どうなるかはわからなかったけれど、それを始めるしかないと決めて、そこに飛び込んだ結果、得難い経験を得たと言える。
それは魂震えるような経験であったから、それはそれでよくやってきたと思うし、まさに謳歌したと言える。
ところが今はどうなのかと、ふと思うんだよね。それなりにやりたいことをやってるし、たぶんその方向に向けて準備してきてるんだけどね。
そんな時に響いたのが、この言葉ということなのかも知れない。
とやかく言うこともないんだろうね。客席ではなく、操縦席に座ると選ぶことであり、ふたたび外に出ていけということなんだろう。
C様が占いを受けようと思って東京に来たというのも、おもしろいシンクロだと思う。
占いはただの道具であってそれだけでは人は変わらないけれど、読み手次第でなんとでもなるということだと思う。道具を使うのは人なのだからね。
操縦桿を握って、実際に動き始めたらそんなことは当たり前すぎて笑ってしまうことなのかも知れないね。