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踊りの場を創るもの


こちらはFacebookでシェアされていたライブ動画です。チョップリンさんという舞踏家の方が主催するサラスワティという踊りのグループの記念イベントというか、発表会というようなものだったようです。

https://www.facebook.com/share/v/AvEH9SeSx2XSVs3A/?mibextid=WC7FNe

バリらしさがてんこ盛りの動画で、ついつい惹き込まれて、全部、見てしまいました。踊りは19:30あたりから始まります。

花撒きの踊りがあり、唄があり、40:00あたりでは、アルジャのようなスタイルで唄いながら踊っていた女の子たちが舞台上でルバノの面をつけての、早替わりみたいなこともしていて、新しい試みや遊びが随所に見られるのがおもしろい。

ちなみにルバノはオランダ軍の兵士を模した滑稽な踊りで、僕も踊ったことがある演目。

また、子供の猿とバロンの掛け合いであるとか、ジャンゲール(男女のお見合いみたいな踊り)もレジャン(日本の盆踊りのようなもの)もあって、いわゆる学芸会的な要素もあるような、皆が楽しめるような、そんな演目が目白押しという感じ。

古典的なバリスやレゴンやトペン(仮面舞踏)みたいなのは出てこないけれど、むしろだからこそ、バリの人たちの日常の楽しみというか、和気藹々とした村の雰囲気が感じられるところがあった。

そして堅苦しい演目がないからこそ、踊るものと演奏するものと、観るものと、森を支配するものたちや、寺院に眠る祖先の霊も含めて、あらゆる背後を含めて、皆で作り上げている空間というのが見えたようで、それが面白かった。

それと何より、今さらなんだけれど、このような場があること自体がすごいことだと思う。大きな木があって、割れ門があって、奥には寺院があって、森に囲まれていて、踊り手が踊り、村人が見守るという構図。それと忘れてはならないのはガムランを演奏する人たちもいるし、場を清める僧侶もいる。

ここは寺院であり、公共のスペースであり、それらすべてが村を維持し、村という霊的な共同体を育むための装置であり、儀礼であり、所作であるということ。そういうことが、無意識的に共有されているからこそできる舞台であり、祭りだったんだなと思った。

みな、小さい頃から、夜な夜な練習して、世代を超えて受け継がれてきた歴史があり、それを支える場があり、宗教的な共通認識があり、だからこそできる空間であり、これはこれでひとつの帰結点とも言えるカタチがある。

踊りの振りにしても、唄にしても、ガムランの旋律の流れにしても、そこには歴史があるからこそというのもあり、ひとつひとつの意味などすでに問う必要もないというところまで熟しているような気がした。

しばらくの間、このようなところに身を置かせてもらったことがあり、何度か踊らせてもらったこともあるので、このような場で踊る時の感覚というものは細胞が覚えていて、たとえ動画といえども、見れば蘇ってくる細胞の振動のようなものがある。

思えば、それもまた、今年になってシュワシュワと身体の中で発酵しているなんらかのエネルギーとつながっているように思えるところがあって、それも面白かった理由だと思う。

深いところでつながっている何か。そのエネルギーに触れるならば、既存の、すでに出来上がった場ではない、「別のもの」としての「場」が立ち上がってくるような気もしている。既存の場にはないというところが曲者で、これはとてもむずかしい挑戦というようにも思えてくる。

考えてみたら、何千年と続いてきた装置から出て、別のものとしての新たな場に漕ぎ出そうとしているわけだからね。

僕個人としては、とてもちっぽけだし、なんの実績もないに等しいけれど、このようなことを思考しながら、何か新しい意味のあるカタチを見出したいと足掻いているのかもしれないと思う。少なくとも、そういう衝動があるということか。

そして、それを煽ってくるのが、身体の中にあるシュワシュワしたエネルギーであり、それこそが踊りに向き合いたい動機とも言えるものなんだと思う。

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