名も無きものと共に在る今
最近、よく見ている小野さんの動画です。
はっとすると言いますか、
名も無き者としての自分と、
名付けられた自分と、
これは地と図のようなもので、
片方にいるときは片方が消え、
反対に移れば、反対が消えるような関係なんですね。
先日、「われここにあり」と宣言することを書きましたが、この「われ」は名もなき自分でありながら、その実、切っても切れない関係として、名付けられた自分も重なっているわけです。
「われ」を宣言するということは、とてもむずかしいことであるなあと、あらためて思いながら、それでも「われここにあり」と言わないことには、何も始まらないのだと言うことなのだと思います。
たしかに、名もなきわれが現われているときには、誰の言葉も否定せず、静やかに口を噤むでしょうし、世界を拒絶せず、緩やかに目を瞑るだろうと思います。
そこに至るには、長い年月が必要なのでしょう。
たくさんの経験とたくさんの挫折が必要なのかも知れません。その結果として、真名と仮名の等化を見いだせる位置にたどり着けたのならば、すべてを受け入れて、静かに微笑んでいられるのだと思います。
そして、きっとその時には、素晴らしい踊りが生まれるのだと思います。そのような所にたどり着けたらいいなと思いながら、この動画を見ていました。
これまでのすべての経験と、今目の前に広がっている現実と、すべてを受け入れて、すべてを了解しながら、川の流れを見つめるシッダールタのようになりたいと思ったのでした。