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孤独な鳥
ふと、見かけたカスタネダの言葉。
ただ一つ、死を考えることだけが、戦士を俗世から完璧に切り離す。その結果、彼は何に対しても自己を放棄できるようになるのである。おのれの死が近くに忍び寄っていて、とても何かに執着している暇などないことが、彼にはわかるのだ。だから、戦士はいささかもこだわることなく、なんであれすべてを試す。
というか、これはドン•ファンがカスタネダに語った言葉だと思うけれど、この心境は本当に踊りに似ていると思う。
少なくとも僕にとってはずっと、踊るとはそういうことだった。とくに、戦士の踊り(バリス)から始まったということも関係あるかもしれない。
死と隣り合わせというのは、日常においても常にそうで、そのような生のエッジみたいなところで生きてきた人というのは、普通の人生には興味が持てなくて、気がついたらドン•ファンのような変人を探していたりするものだ。
そしてそこに向き合う時だけが、唯一ほっとできる時だったりする。現象学を持ち出すまでもなく、この世界は死に満ちている。そこで腹を括った者だけが見出す強度があり、位置があるのだろう。まさにメメント•モリ(死を想え)だ。
しかし、そういう人は圧倒的に少数派で、なかなか理解はされないし、社会的には負け組に属すことが多い。それでもしつこく生き残っているのは、そこにこそ希望があるからなのだろう。
カスタネダの本に紹介してあった「孤独な鳥」のことを時々思い出すけれど、まさにそれだよね。
「孤独な鳥」
孤独な鳥の条件は五つある
第一に孤独な鳥は最も高いところを飛ぶ
第二に孤独な鳥は同伴者にわずらわされずその同類にさえもわずらわされない
第三に孤独な鳥は嘴を空に向ける
第四に孤独な鳥ははっきりした色をもたない
第五に孤独な鳥は非常にやさしくうたう
これと同じ匂いを感じたのが、原初舞踏であり、最上さんだったということも書き添えておきたい。最初は断っていた、ある人からの稽古場へ行こうという誘いを受けることにしたのは、最上さんの「私の身体史」を読んだからだ。
その後、稽古場で起こったことについてはすでに書いたので、ここでは繰り返さないけれど、そのおかげでふたたび踊るようになって、今がある。
カスタネダの本はバリの踊りに出会った頃に読み始めたものだったけれど、いまだにおりにふれて開いてみるもののひとつ。
表しか見えない世界だからこそ、裏が大事なのだろう。本当の大地とはそういうところで、孤独な鳥は常にそこに自らの位置を見出そうとするのだと思うのだ。