孤独な鳥
ふと、見かけたカスタネダの言葉。
というか、これはドン•ファンがカスタネダに語った言葉だと思うけれど、この心境は本当に踊りに似ていると思う。
少なくとも僕にとってはずっと、踊るとはそういうことだった。とくに、戦士の踊り(バリス)から始まったということも関係あるかもしれない。
死と隣り合わせというのは、日常においても常にそうで、そのような生のエッジみたいなところで生きてきた人というのは、普通の人生には興味が持てなくて、気がついたらドン•ファンのような変人を探していたりするものだ。
そしてそこに向き合う時だけが、唯一ほっとできる時だったりする。現象学を持ち出すまでもなく、この世界は死に満ちている。そこで腹を括った者だけが見出す強度があり、位置があるのだろう。まさにメメント•モリ(死を想え)だ。
しかし、そういう人は圧倒的に少数派で、なかなか理解はされないし、社会的には負け組に属すことが多い。それでもしつこく生き残っているのは、そこにこそ希望があるからなのだろう。
カスタネダの本に紹介してあった「孤独な鳥」のことを時々思い出すけれど、まさにそれだよね。
これと同じ匂いを感じたのが、原初舞踏であり、最上さんだったということも書き添えておきたい。最初は断っていた、ある人からの稽古場へ行こうという誘いを受けることにしたのは、最上さんの「私の身体史」を読んだからだ。
その後、稽古場で起こったことについてはすでに書いたので、ここでは繰り返さないけれど、そのおかげでふたたび踊るようになって、今がある。
カスタネダの本はバリの踊りに出会った頃に読み始めたものだったけれど、いまだにおりにふれて開いてみるもののひとつ。
表しか見えない世界だからこそ、裏が大事なのだろう。本当の大地とはそういうところで、孤独な鳥は常にそこに自らの位置を見出そうとするのだと思うのだ。
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