どんなもっともらしい理屈を言おうと空間を汚すような踊りは嫌いだ。
先日、月着陸捏造論の是非について、「人間は月に降り立ったのか」という記事で、ちょっと熱く時間をかけて書いてしまったけれど、元はと言えば、この最上さんのポストに書かれた気持ちと同じようなところから来たんだなと思う。
曖昧であったり、理解できないことはしょうがないとしても、ポイントは、「間違った理屈を捏ねて、人を貶したり、嘲笑うという行為」に対して、僕は反応したんだと思うんだよね。それは空間を澱ませるものであって、人を惑わせる元となるものだから。
そういう人とはやはりまともなやり取りはできないという経験をしたんだけれど、同じように月着陸に懐疑的な姿勢の方であったとしても、人としてのあり方をわきまえている方とのやりとりは、むしろ楽しくて有意義な時間になったというのがあって、それこそ大きな収穫だったと思う。そこには互いに尊重する姿勢があるからだし、それは踊りにおいても同じなんだと思う。
僕は普通の人よりかなりたくさんのいろんな種類の踊りを見てきた方だと思うのだけれど、本当に素晴らしいと思えて、記憶に残っているものは、残念ながらそんなに多くはない。
空間を汚して平気な踊りというものは、大御所の人であってもけっこうある。また曖昧だなと思う踊りも、ふわふわした軽い踊りもあるけれど、これらは少なくとも害になるわけではないから気にはならない。
それもまたプロセスだし、曖昧で軽いところから始まって、だんだん濃くなっていくのが、踊りに向き合うという時に、必然として起こってくることだからね。
拙くても素直な踊りを見ることができた時はとてもうれしいし、賞賛したくなることもある。しかし、どうだとばかりに空間を汚しているような踊りに関しては、目を背けたくなる。自分の踊りに関しても棚に上げずに、そういう見方はしてきたつもりではある。
内面から外面に出ることをヌーソロジーでは推奨しているわけだけれど、曖昧さというのは、内面の整理ができていないことだと考えると、ただ外面を目指せば良いのではないということも言えるだろう。
とっ散らかった内面のまま、外面に出れば、おそらくスキゾフレニア的な世界に出てしまってバランスを失うだろう。おそらくみな深いところではそのあたりのことはわかってるんじゃないかな。だからこそ、怖いと思うんだろうし、だからこそそこで見ないふりするのではなく、早め早めに対処した方が良いということだろう。
そういう意味でも、この前の月着陸に関する言及は、僕にとって内面を整理するという意味で、とても大事なことだったんだと思う。基本的に人を変えたいわけではなく、その相手は鏡だという認識でいる。嫌だと感じた相手というのは、かつての自分であり、まだそれを充分消化しきれていないということを示していると、僕は考えている。
だからこそ、そういうことは、ふっと湧き立つように、衝動のように起こるわけで、そのことを指して「直感を信頼する」というような見方もできるだろう。
そのように物事に真剣に向き合う姿勢というのは、時にヒリヒリとした空気を生み、人によっては見たくないと思う人もいるだろうけれど、そういうミッションは避けないで、すぐに向き合った方が良いと思うし、早々に終わらせていった方がいいと思う。
今はもうそういう時代なんだと思うからね。時は熟したりという感じ。写真は庭の梅。咲き始めました。