床稽古〜立ち上がる
昨日の床稽古は予備動作なく、床に横たわった状態から始めました。横たわったらすぐに聞こえてきたのは、「目の玉を後頭部に落として、そのままどんどん落ちていく」という声。
その形はまさにヨガの死骸のポーズであり、墓場に横たわる死体として、どこまでも落ちていく感じ。。。
このように床に横たわるのはとても懐かしく、それは昔々、下北沢の稽古場でヨガの最後に死骸のポーズをした時にタイムスリップしたかのような感覚でもありました。
「敗北」「何者でもない」感に包まれて、それはそれでとても気持ちの良い状態だったので、もうこのまま立たなくて良いのかもしれないと思いながら、どっぷりと落ちて暗い闇の中に浮かんでいたのだけれど、ちょうどそんな時に脳裏に浮かんできたのは、過去にすれ違った人たちの顔、顔、顔でした。
そのうち、いまさら立ち上がる必要があるのかな? 立ち上がってもいいのかな?と思いつつも、ひとりでに手が動き、足が動き、ゆっくりと立ち上がり始めたという感じだったでしょうか。
「立ち上がる」というプロセスは横から縦への変換であり、それは垂直性への希求であり、おそらく人間が本質的に持っている本能的な何かなのでしょう。
やはり立ち上がることで、湧き上がる喜びがあり、立ち上がりたかったということを再確認した次第。
次に他の人たちの床稽古を見ながら、やはり最初の床に横たわった場面では、死体が並んでいる墓場のように見えました。
そして、少しずつ立ち上がっていく様を見ていると、それはまるでタロットカードの20番に描かれていた復活の絵のようだと思いました。
横から縦へ、水平から垂直へ、
そこには大きな差異が隠されていて、おそらく次元を超える領域の変換を伴うようなことなんだろうという気がします。
今朝、上の最上さんのポストを読んで、敗北し立ち上がれないことは、聖性を実現するためのプロセスであり、遠回りこそが王道なのだということを思いました。
それは最適化したものが勝つという世界の真反対であり、むしろ負け要素が強いものこそ、最後には復活する可能性のある世界なのでしょう。まさに負け組進化論です。そして、それこそが菩薩道でもあるのだと思います。
「ヒエロファニー」という言葉は初めて知りました。
聖なるものを顕現させる「何か」という意味では、まさに原初舞踏はヒエロファニーそのものだと思います。今という時代だからこそ、その存在価値は計り知れないものがあり、ひとりひとりの能動的な創造の取り組みが、新たな神話として世界を紡いでいく原資となっていくような気がします。