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「ある」「いる」「なる」「あらしめる」から「ならしめる」に関しての考察

これはTwitterで見つけたケイブコンパスの画像です。

「ある」「いる」「なる」「あらしめる」についての定義がケイブコンパスを使ってなされています。赤はノスなので、時空的な表現(四次元時空)ということになり、青はヌースなので、持続空間的な表現(四次元空間)になります。

これまた別のTwitterですが、日本語教師が外国人の生徒に対して、「ある」と「いる」の違いを説明したという話を見つけました。

水槽の中で泳いでる魚に対しては「魚がいる」
冷蔵庫の中においてある魚に対しては「魚がある」

これらはどちらも外から魚を見たときという事になりますが、命を持ったものに対しては「いる」、命がないものに対しては「ある」ということで、とてもわかりやすい説明だと思います。

日本人は感覚的にこれを使い分けることができるので、命の有無によって、存在の質(次元)が変わるということに対して敏感なのだとわかります。

「いる」は物を見ることができる、意識(精神)を持ったものという事になります。「見る」ものは「ある」ものとは次元が違うところに「いる」ということになりますね。ですから「いる」ものは「見る」ことができるものだということです。「ある」ものは見ることができません。

「なる」とは?

それに対して、青い線、ヌースが示しているのは、精神の流動ということになります。「なる」というのは、精神が素粒子の中に入り込むということです。意識そのものが、素粒子となり、物の中に存在しているという状態のことです。

ここには流れる時間はなく、持続としての記憶があり、それは永遠ともいえる空間です。死の空間と言ってもいいかもしれません。夢の中の世界とも言えるかも知れません。瞑想しているときに入り込む変性意識と言えるかもしれません。

この空間はプランクスケールに縮んでいて、大きさがありません。素粒子が大きさはないのに、内部に高次元空間を持っているということと合わせて考えてみてください。まさに人間の意識は素粒子であるという事を示しているのが、この図の意味だということですね。

「あらしめる」とは?

そしてその先に「あらしめる」があるわけです。これも青い線ですから、ヌース(精神)であるということがわかります。

「あらしめる」は「ある」ことを可能にするという意味ですから、物を包み込んでいる空間という見方をしてもいいかもしれません。物と空間は反転しているというわけです。いわゆる図と地の関係という言い方もできるかと思います。「あらしめる」に意識が回り込むことで、わたしたちは目の前に物を見て、そこに物があるという認識を持てているということになるわけです。

物の起源

こうして見ると、物というのは、物質的な側面と、霊的な側面とが組み合わさって存在しているということがわかります。ちなみに、この物質的な側面(赤い側・ノス)は他者側から来ています。自己と他者は反転しているので、他者にとっては青であり、ヌースです。ですから、物の正体というのは、自己と他者の精神が組紐のように合わさってできた物だよということになるのですね。

しかし、その精神が見えなくなると、ただの物質ということになります。物の起源としての精神が忘れ去られてしまったのが、今の科学の視点であるということですね。そこに、本当の宇宙の創造の物語がある訳です。つまり、人間の意識がこの宇宙を創造してきた起源であるということになるわけです。

「あらしめる」「いらしめる」から「ならしめる」

そのあと、ψ9からψ11に精神の流れが進むときには、他者側の赤い領域を青に変えていきます。また、ψ10からψ12にノスの流れが進むときには、他者側の青い領域を赤に変えていきます。そうして、「あらしめる」と「いらしめる」が出そろったら、最後に自己側と他者側を等化することで、「ならしめる」の世界が見えてくるということになるのかなと思います。

ちなみに、こちらはΩの領域ですが、生命の樹に当てはめて、「ある」「いる」「なる」「あらしめる」「いらしめる」「ならしめる」について説明された図です。

そこまで行ったら、かなりの高次元の世界ということで、それこそ「人類が神を見る日」という事になるのだと思います。もともと、この本は「神が神を見る日」というのが元々の題名だったという事ですから、人間が神の領域に進出するというようなこともあり得るのかも知れません。

あと10数年で、そういうことも見えてくるのかも知れないということなんですよね。なんか、だいそれたこと書いてるなと思いますが、こうして書いていくことで、自分の中が整理されてくる感じがします。


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