持続空間に入ることと引きの身体
僕がバリの踊りに初めて出会った時に起こったことは、今から思えば、「他者」を見たということだったかも知れません。
トペントゥア(老人)の面が僕の中に入り込んできて「わしの声が聞こえる奴はおらんのか!」と聞こえてきて、胸がはち切れそうになって、思わず「ここにいます」と答えたんだったと思い出しました。
そのことを、それを踊った舞踏家に話したら、バリに行ってくればいいと言われ、その1ヶ月後にバリで習い始めたのがバリスだったということです。そして帰国して東京に出て、その稽古場に通い始めたというわけ。
しかし、あの時のトペントゥアくらいにインパクトのある踊りはその後バリでも見たことがなかったかも知れないのです。
今でもあの時の場の空気感はありありと覚えていて、確かにそこでは何かが起こったんだと思うのです。それは僕にとっては人生が変わる瞬間だったと言っても良く、あの時の老人はなんだったんだろうと時々思い返していたのだけれど、それがいわゆる「他者」なのだというなら、こんなに腑に落ちることはないなと思ったのでした。
半田さんのツイートを重ねて読みながら、こんなことを思いました。
あの時、無限遠点に出たからこそ、トペントゥアの声が聞こえたのかも知れないということ。
そして、彼は「他者」であり、人間の反対であり、あの時あの場所が特異点であり、そこでは視覚よりも聴覚の方が優先だったのかも知れません。たぶん見ながら聴いていたのかの知れないと思います。そしてその声によって僕はバリに行くことになったということです。
そんなことを思いながら、空間に入っていくという事についての、最上さんのツイートが目に入りました。
この感じは先日のスローでお茶碗に触れていたときに、そこから手を離しがたく、そこで起こったことがまさしく空間を肌で感じるようなことだったのかも知れないと思います。押したり引いたりしながら、そこに空間の皺のようなものが生じて、それが入り口になるというような言い方もできるかも知れません。
そういうことを考えていたら、昔治療の仕事をしていたときのことが突然思い出されました。
人に触れるときに、どう入るか、そしてどう抜くか、そういうことを感じながら入っていく時の感覚は、空間を肌で感じるということとたぶん同じような注意力が必要なもので、踊りの中でもその感覚を培っていたから、治療の世界でもそれなりに評価されたのかも知れないなと思ったわけです。
感覚としては、押しながらも、同時に引くことが大事だと思っていて、後輩に教えるときにもあれこれ感覚的に細かいことをいうので、なかなか理解されなかったということを思い出します。
このあたりのこと。最上さんがおっしゃる「引きの身体」が必要ということと、たぶん関係しているだろうと思いました。
あのころ他人の身体に触れることで学んだこともたくさんあったんだなとあらためて思い出しながら、身体も空間なんだということをあらためて思ったのでした。
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