巡礼することと漂流すること〜歩行の稽古の意味
「東京巡礼」という言葉に接して思い出した言葉として、「東京漂流」という言葉があった。「東京漂流」は40年ほど前に出版された本の名前で、当時衝撃を受けた本だ。
表の東京に対して、裏の東京に目を向けているという点をとれば、「東京巡礼」と「東京漂流」は互いに通じるところがあるものの、その両者はまったくもって存在の質が違っている。
何がどう違うのか、最初はおぼろげだったのだけれど、だんだんと見えてきた感覚があって、今日はそのことを少しまとめておこうと思う。
巡礼者と漂流者の違いは、位置を持つ者と、位置を持たない者の違いと言えるのかもしれないと思ったら、何か視界が開けたような気がしたのだ。
同じく「裏を見る」としても、位置を見出した者はそこに我-汝としての、永遠というか、宿命というか、契りというか、秘匿された約束のようなものを見て、そこに祈りを捧げるだろう。
位置を見出さざる者は、位置がないゆえに、その裏に秘められた何層にも重なった履歴が見えず、「我」の視点にとらわれてしまうのかも知れない。だから、どうしても漂流する者は持続に欠け、刹那的な衝動に身を任せがちになるのかも知れないと思ったのだ。
巡礼するためには「持続」が不可欠だ。何層にも重なった、神々の痕跡と、かつて生きた人々の履歴に対する尊重があるからこそ、巡礼の旅は尊いのだと思い至った。
これは位置を見出せていない漂流者とはまるで違う生き方なのだろう。漂流する者はどうしても刹那的にならざるを得ない。巡礼者が何かを創造していく意識だとしたら、漂流者は最終的に何も生み出さない者と言えるだろうか。
だからこそ、一歩踏み出すごとに「我ここにあり」と宣し、そこにアンカリングしていくという歩行の稽古は、漂流者から巡礼者へと成熟していくために必要不可欠な道程と言えるのだろう。
そこに思い至って、今ようやくこれまでの自分が漂流者であったということを認められるように思えたのだ。
そしてあらためて歩行の意味、「我ここにあり」と宣言することの意味が身に染みる思いとなったということでもある。このことに想いを馳せながら、また歩行の稽古をしたいと思ったのだ。
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