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12月に観た展覧会【ロートレックとミュシャ パリの10年@大阪中之島美術館】

12月初旬に観てきたんですが、好きな人にはたまらない内容でした。
好きな人多いですね。ミュシャは女性が好きかな?

今回はアール・ヌーヴォーの代表作家2人が同時にパリで活躍していた10年の間の作品展。
1891年から1900年の10年です。

【展覧会の見どころ】


大阪中之島美術館のHPによると

  1. ロートレック作全ポスター31点を一堂に紹介
    《ムーラン・ルージュ、ラ・グーリュ》の発表から10年の間でロートレックにより生み出されたポスター全31点を展示

  2. ロートレックとミュシャ、二人の活動を比較しながら紹介
    ロートレックがポスター作家としてデビューした1891年から1900年まで、ロートレックとミュシャが発表した作品を各年ごとに比較して展示

【展覧会のセクション】

第1章 1891年から1894年
《ムーラン・ルージュ、ラ・グーリュ》 発表から 《ジスモンダ》誕生まで

第2章 1895年から1897年
「サロン・デ・サン」での競作

第3章 1898年から1900年
ロートレックの最後のポスター、ミュシャはパリ時代のピークへ。

第4章 1901年以降
ロートレックの死、ミュシャ装飾様式の成熟と完成

第5章 同時代のお酒のポスター

Paris Map in 1900 1900年のパリを散策する
ロートレック、ミュシャと関わりのあるスポットを示したパリ古地図展示

【当時のパリは】

世紀末、ちょうどパリはベル・エポック。良き時代、美しき時代という意味。
1900年はパリ万博開催。
なんと動く歩道とかエスカレーターが話題で5000万人もの入場者があったそう。
美術は1860年代から印象派、1880年代半ばから象徴主義、20世紀になるとフィーヴィズム、キュビズム。アール・ヌーヴォー。

戦前前の華やかなパリは夢を追う芸術家たちが集まっていた時代。アール・ヌーヴォー「新しい芸術」にふさわしい街だったのではないかと想像しながら周りました。

【第1章 1891年から1894年 ロートレックとミュシャ、パリへ】

ここでの目玉は、
ロートレック「ムーラン・ルージュ」
ミュシャ「ジスモンダ」
2人を有名にした作品です。

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(1864-1901)は、フランスの画家、版画家、イラストレーター。
貴族の出で、15歳で足の成長が止まってしまう病気で140cmしかなかったそう。
家族が絵の才能を見出して学ばせパリへ。
ロートレックは印象派の画家。
歓楽街のお酒とダンスを楽しめる娯楽施設ムーラン・ルージュに出入りし、娼婦や踊り子など夜の世界の女性たちを多く描いています。
彼自身、身体的差別を受けていたため、共感していたのかもしれませんね。
「ムーラン・ルージュ」のためにポスターを描いたことで名が売れました。
彼は、ムーラン・ルージュがあるモンマルトルに住んでいたそうです。
ポスターは芸術ではないという認識を変えた1人。

もう1人の立役者がアルフォン・マリア・ミュシャ(1860-1939)
チェコ出身。
ウィーンの舞台装置工房で働きながら夜間デッサン学校に、その後ミュンヘン美術院、28歳の時にパリのアカデミー・ジュリアンに通います。
パリではデザイナーや挿絵画家として生計を立てていたミュシャ。
彼はロートレックのいたモンマルトルと川を挟んだモンパルナスに住んでいたそう。
とても近かったんですね。
ミュシャはベル・エポックを代表する大女優サラ・ベルナールのポスター「ジスモンダ」を手掛けたことが名声の第一歩となります。

ベルナールが年の瀬に急遽ポスターを発注したが、主だった画家が休暇でパリにおらず、印刷所に電話があった時、たまたま側で働いてたミュシャに話が行き、素早くしかも素晴らしいポスターを完成させ、一夜にして有名になりました。
この後、サラ・ベルナールと先約契約します。
この成功は、本当に偶然。
運命って偶然なんだと実感するエピソードです。
ここまでが、展覧会での第1章。


ロートレック「ムーラン・ルージュ、ラ・グーリュ(第2ステート)」


ミュシャ「ジスモンダ(文字なし)」1894年


ミュシャ「ジスモンダ(文字あり)」1894年

【第2章 1895年から1897年】

この2人がまみえることになるのが、
第2章の1895年から1897年「サロン・デ・サン」での競作。

美術文芸雑誌、「ラ・プリュム(La Plume)」が美術展示会をしたのに展示していました。
ポスターがアメリカなどで売れ出したため、展示するようになったそう。
審査や賞があったのかと思っていましたが、特になく、出版社が事務所を引っ越した際、スペースが広くなり、展示できるようになったからだそう。
出展者は展示スペースに作品を展示したそうです。
それでも毎回展覧会のポスターが制作され、「ラ・プリュム」の特別版が展覧会の目録の代わりでした。
立派なポスターに冊子なのですっかり審査ありきなのかと思っていました。

ロートレックもミュシャもポスターや表紙を依頼されています。
意識していたのでしょうね。

ミュシャ「サロン・デ・サン・ミュシャ作品展」1897


ミュシャ『イマージュ』誌の表紙(第1号)1896


ロートレック『イマージュ』誌の表紙(第11号)1897

【第3章 1898年から1900年】


1900年はパリ万博。
ロートレックは、健康状態が悪くなり、パリを去り、亡くなってしまいます。
体の弱さとお酒の影響もあったようです。
それでもドローイングを描き続けていました。

ミュシャはパリ万博のオーストリア館、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ館を担当。
そのため、フランツ・ヨーゼフ1世勲爵士を授けられています。
クリスタルの精みたいな連作などミュシャらしい作品が並んでいました。


ロートレック「学生達の舞踏会(文字なし)」1900


ミュシャ『四つの宝石』 - 「アメジスト」1900



【第4章 1901年以降】


1901年、ロートレックは36歳で故郷の城で亡くなります。
他方、万博を機に故郷チェコのために働くことを決めたミュシャは、パリを離れアメリカ、そしてチェコへと移住。
この頃パリ時代の集大成ともいえる『装飾資料集』(1902年)を発表、その装飾様式は見事なまでの成熟と完成を見せています。
デザインしてくれなど依頼が増えていたんでしょうね。
誰もが、これを見れば、装飾デザインができるという意図で作られたものです。

ミュシャはドイツ軍にミュシャは「絵画がチェコ国民の愛国心を刺激する」として逮捕されてしまいます。
ナチスはミュシャを厳しく尋問したが、78歳の彼には大きな負担となった。
間もなく釈放されたものの、これが元で亡くなります。

戦後、共産党政権は、ミュシャと愛国心の結びつきを警戒し、彼の存在を黙殺した。
プラハの春の後、1ミュシャの絵画がプリントされた記念切手数種が制作されている。
また世界的にも、1960年代以降のアール・ヌーヴォー再評価とともに、改めて高い評価を受け、
現在は誰もが知るチェコを代表する国民的画家に返り咲きました。


ミュシャ「装飾資料集」1902


ミュシャ「装飾資料集」1902

【第5章 同時代のお酒のポスター】


商品を宣伝するためのポスターが多く作られるようになり、ミュシャ的なデザインポスターが展示されています。
ちょうど、パリ万博あたりは、パリ市民が増え、歓楽街が栄え、タバコやお酒の製造販売などもが増えたためと言われています。
当時のお酒の石版画ポスターが展示されています。
見ると飲めないのに買ってしまいそうです。

これを見ると2人の影響が大きかったと知ることができます。

アンリ・ブリヴァ=リヴモン「アブサン酒 ロベット」1896

展覧会では、当時流行った自転車の宣伝ポスターも2人とも作成した作品が展示されています。
1898年アメリカの自転車会社のポスターをミュシャはロートレックのように自転車を漕ぐ人を描くのではなく、ギリシャ神話の火と鍛治の女神へファイストスを描いています。
自転車のハンドルにへファイストスの象徴である月桂樹、工具が描かれ、美しいデザイン。
ロートレックは自転車レースでスポーツ的なイメージですが、ミュシャはこれが自転車の広告とはパッと見わからないデザイン。
ロートレックがハンディキャップで自転車は乗れなかったが、好きで自転車競技場を見物していたそう。

ミュシャ「ウェイヴァリー」1898
ロートレック「シンプソンのチェーン」1896年

【最後に】


19世紀後半から第一次世界大戦前の1914年まで続いたパリの華やかで享楽的な雰囲気を味わえます。
戦争の雰囲気が漂いながらも享楽的、廃頽的な空気を作品から味わってきました。

好きな人もそうでない人も当時の文化を味わってみてはいかがでしょうか?

展覧会案内 
  ↓
ロートレックとミュシャ パリの10年

会期 2022年10月15日(土) – 2023年1月9日(月・祝) 
*月曜日(1/2、1/9を除く)、12/31、1/1 休館
*11月29日(火)より展示作品の一部が変わります
開場時間 10:00 – 17:00(入場は16:30まで)
会場 大阪中之島美術館 4階展示室
主催 大阪中之島美術館、朝日新聞社

音声でも配信



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