いただいた問いと私の回答2
前回の続き。
②「与えられた自由」とは真の自由でしょうか。
私の中で自由とは、選択することもしないことも可能であることである。Aに関する自由があるとは、Aを選択することも選択しないことも可能であるということである。自由の定義をこれとして考えていく。
「与えられた」という条件がついた自由が考察対象だが、逆に与えられない自由とはどのようなものだろうか?先にこれを考えることで、与えられた自由の特徴を浮き彫りにしたい。与えられない自由とは、与えられずとも生まれたときからずっと持っている自由と言い換えることができる。そして、奪われ得る自由なら当然与えることもできるので、与えられない自由には奪われ得ないという条件もある。しかし、奪われ得ない自由など存在するのだろうか?私たちは、生きていることで人生で可能な行為を選択できる。そもそも生きていなかったり、殺されたりしたら、自由を持っていることはできない。ならば、殺すことで相手の全ての自由は奪うことが可能だということになる。奪われ得る自由は与えられた自由なので、全ての自由は与えられた自由だと言える。私たちは周りの人全員に殺さないでおいてもらっている、つまり生きる自由を与えられているから、生きられている。
では、与えられた自由では選択することもしないことも可能な状態は保てないのだろうか?そんなことはないだろう。どんな自由であれ、そのような状態であることが前提だったはずである。与えられた自由も自由の一種なのだから、程度は当然当てはまる。自由の一種と言ったが、与えられない方の自由がないことは先程確認済みである。
しかし、与えられた自由に関する自由はどうなのだろうか?自由を与えられること自体を選んだり拒否したりできるのだろうか?今は自由が既に与えられている状態であるから、そもそも選ぶことはできない。選ぶ前の状態があり得ないからである。とすると、残る選択肢は拒否することだが、これは可能だと思う。与えられる側、つまり客体が存在しないことによって、与えるという行為を成立させなくすることができる。与えることが不可能ならば、与えられた自由も当然存在しなくなるので、自由を与えられることを拒否できたことになる。つまり、与えられた自由を拒否する唯一の手段は、死である。自分の意志で拒否できないといけないので、自殺するか誰かに殺してもらうかする必要がある。
逆に、自由を与える自由はあるのだろうか?与える主体の側の自由についてである。これも、先程の与えられること自体の自由と同じであろう。自由を与える自由は自分が存在している時点で既に存在している。自分が死ぬと、自由を与える自由もなくなる。自由を与える自由も、与えられていない自由はないため、同じく与えられているのである。
自由を与える側と与えられる側は、分かれているわけではない。お互いに、自由を与え合っている。自由を与える自由も与え合っている。存在すれば、自由の与え合いは不可避である。与えていることに、自動的になってしまうからである。つまり、自由である状態は強制されている。
まとめると、与えられた自由は真の自由である。逆に与えられない自由はない。ただ、与えられた自由に関する自由は、選択することはできず、拒否のみが可能である。それは、存在している時点で自由は強制されているからである。