
心が壊れた日
16歳の頃、色々あって閉鎖病棟に強制入院をした。
最初は2,3日様子を見るだけだから、入院しようか?と大人達に言われ、母親は高血圧持ちなので、そのせいで疲弊しており、仕方無く入院することになった。
2,3日、なんて言われていたけど、結果的に3ヶ月もそこにいなければいけなくなってしまった。
その間、保護室、拘束なども経験した。
「地雷女子」なんて言葉が流行っているけど、まさに心に地雷を抱えている状態だった。気がふれないように、正気を保てるように、必死だった。毎日とても怖かった。しかし、ふとしたことで気がふれてしまい、保護室に閉じ込められると、一週間ぐらい出てこれなかったりした。
16歳の頃は、統合失調症という病名はまだついていなかった。医者にも不思議そうな目で見られ、これといった診断名がなかった。ただ、わかりきったように偉そうにものを言うので、いつも診察の時は主治医と喧嘩腰で話をしていた。
親には酷く反発した。
MDプレーヤーとMDを持ってこいと電話をして、もう一生ここにいるから。と言った。
保護室や拘束は牢獄のように苦しかったけど、他の患者と触れあうことで、はじめて人の本当の優しさというものを感じられた。ごはんも美味しく、優しい看護師は優しく、ここは楽園か?と朧気な頭で思っていた。
最初はね。
でも、徐々に現実がわかってくると地獄のようだった。
説明もなされぬまま、毎日大量の薬を投与され、副作用のアカシジアに酷く苦しめられた。
アカシジアというのは、簡単に言うと、じっと座ってられない、寝転んでも落ち着かない、歩いてる時がまだ楽、音楽を聴いてるとまだ楽、とにかくじっとしていられない、痛々しいことを言うと足を切断して欲しいぐらい気持ち悪い、生き地獄のような副作用のことである。
最初は訴えても副作用止めを処方されているのかいないのかさえわからなかった。
毎日毎日眠れず、夜中は病棟をひとりで歩き回っていた。
他の患者は比較的みんな落ち着いているのにどうしてわたしだけこんななのだろうと思った。
眠れる患者が羨ましかった。
後に当時の診断名を知ることになった。
カルテに書かれていたのは「反抗挑戦性障害」という聞いたこともない名前だった。
主治医に「わたしは人格障害ですか?」と聞いても否定され、病名はないとされていた。
後で反抗挑戦性障害について調べたら、
怒りっぽく/易怒的な気分
しばしばかんしゃくを起こす。
しばしば神経過敏またはいらいらさせられやすい。
しばしば怒り、腹を立てる。
口論好き/挑発的な行動
しばしば権威ある人物や、または子どもや青年の場合では大人と、口論する。
しばしば権威ある人の要求、または規則に従うことに積極的に反抗または拒否する。
しばしば故意に人をいらだたせる。
しばしば自分の失敗、また不作法を他人のせいにする。
というようなことが書かれていた。
確かに、当時の自分はそうだったのかもしれない。そうなったのは、周りの対応のせいでもあったんだけど。学生時代は、真逆のおとなしく真面目な人間だった。人に優しくすることで自分の存在価値を見出だすような。でも、ある日を境に完全に冷めきった人間になり、ずっと溜め込んでいたストレスが爆発した形になった。病気の症状として見なされるなら、カウンセリングでも受けさせてくれれば良かったのに。投薬治療のみで、わたしはこの時をきっかけに薬無しでは生きていけない人体になってしまったのだと思っている。
閉鎖病棟入院に至るまであらゆることを調べてきたり実践してきた。ネットで精神病について調べ、カウンセリングを受けてみたいと頼んで受けたり(でも相手と波長が合わなかった)、催眠療法を受けたり(これで対人恐怖や視線恐怖は無くなったけど閉鎖病棟に強制入院するきっかけになった。)
もう、あれから15年以上経つ。
退院する前に、看護師に
「こういう所に入院していたことは、黙ってていいからね。」
「つらかったことは全部忘れてね。」等と言われた。
看護師的には、偏見や差別に合わないよう配慮して言ってくれたのだと思う。
しかし、あそこで経験したことは、自分で書き出すことで消化するしかなかった。忘れてね、言うのは簡単かもしれない。でもそんな簡単に忘れられるようなことではなかった。
わざわざこんなことを公に書いてしまえば、不幸自慢だとか、悲劇のヒロイン気取りだとか、痛々しい奴、怖い人間に思われるのはわかっている。わざわざ書くのはやっぱり同情されたいだけなのかもしれない。ただ、ただ苦しかった。
実際気にせずに元の生活に馴染んでいくことは相当時間が掛かった。
2004年に入院し、2007年にようやく調子が良くなっていきそうな気配を感じられた。
その間はほとんど何も出来なかった。
高校も中退して、デイケアに通って、通院して、自分だけ、何故こんなことをしているのだろう?と思った。
普通に遊ぶことも、バイトすることも、また学校に通うことも出来なくなった。
友達も失ったし、新しく出来た友達ともそこまで仲良くなりきれないし、家族ともうまく行かないし、主治医ともうまく行かないし、デイケアのおじさんやおばさんと話しているのが一番楽かもしれなかった。
でも、おじさんやおばさんに、「バイトしないの?」とか「こんな所にいたらあかんよ」というようなことを言われたのかもしれない。あと、友達でも何でもない同級生がわざわざ家に押し掛けてきて、「お前どうしてるねん、みんな心配してるぞ、お前が一番弱い。」と言われたのもあり、自分の内面と向き合わなければいけないと思って、楽しむことをやめてしまった。
今思えば、焦らずにゆっくりしたいようにすれば良かったとも思う、でもその時しっかり自分や親と向き合ったから今があるとも取れる。
しかし、後に21歳の頃、統合失調症を発症するきっかけになったのは、10代の貴重な時間を、自分らしく楽しめなかったことを激しく後悔する気持ちから来たものだった。
わたしは絶対に学校へ行かないと人生が終わるわけではないと言いたい。いくらでもやり直しはきく。
死ぬぐらいならその環境から逃げて欲しい。
でも、学校で出来た友達、学校でしか味わえない楽しみ、学校でしか勉強できないことはあるので、最低高校までは出ておいた方がいいと思う。
それらは後々貴重なものになってくるから。
あくまでこれは、ただの一般論。
わたしは中退で終わるのがどうしても嫌だったしもう一度学校へ行きたかったので24歳の頃に高卒認定の学校へ通った。
でも、自分はやっぱり学校そのもののシステムが向いていないと実感した。
人と群れるのも苦手、教師と友達みたいに仲良くなるのも苦手、みんなで何か一緒にやるのも苦手。
どこまでも、協調性のない、冷めた人間だ。
今現在カウンセリング中で、やっと自分と向き合ったり、自分の資質を知ったり、ようやくその段階。
本来ならば、10代半ばから進めておくべきだった。
あまりに人を警戒し、信頼出来なさ過ぎた。
やっと今、周りにいる支援者や、家族や、友人の存在に素直に感謝出来るようになったし、信頼出来るようになった。
自分でもこんな自分が嫌になることは多々ある。
本当にどうしようもない奴だな、と思う。
でもこういう人生しか送れなかった。
楽しいこともたくさんあったし、行動してきたし、もっとありふれた人生を送りたかったけど、悔いはない。
未来に希望はないけど、探すしかない。
とにかく、生きてる限り、生きていくしかない。
ただ、生き急ぎ過ぎないで欲しいと思う。
無理をしないで、マイペースでいいと思う。
一度や二度、道を踏み外しても終わりではないよ。
失った時は辛いだろうけど、不安だろうけど、
大丈夫だから。なんとかなる。
自分でも、そう言い聞かせている。