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2025年1月17日阪神淡路大震災30年



震災の日は家族と共に過ごしたいと思った。
特に30年とか、1人でいるとつらい。
自分の感情を整理できないのだ。
実家にいたらもっと整理できないだろうけど、紛らわすためにも家族に会いたいと思う。
あの時、一緒に生き抜いたのだから。

30年はあっという間で、今、解体土木をしてる自分にとって、当時も中学生でありながら平気で屋根に上り、モルタルを練って左官作業をしていた今と、全く変わらない気がする。
あの頃の好奇心そのままで生きてる気がする。

たまたま行くことができた熊本地震のボランティアで、
たまたま熊本に住むことになって、6年がすぎた。
ただひたすら、がむしゃらに生活してきた
自分が熊本の地元新聞に載るなんて思わなかった。その6年の間には確かに色んなドラマがあった。

記事はきれいに上手にまとまっていだか、現実はそうでもなく、いつも迷いと悩みの中でもがいている。
記者さんは私の話しをずっと聞いてくれて、最後まで寄り添ってくれた。
30年経って、何か言いたいことはあるかと聞かれて、話しはしたが、話したことの全部は載らなかった。
そもそも言いたいこともうまく言えなかった。

ただ、被災者一人一人、それぞれが、生死に触れて、自分の想いを守り育んできた30年だったと思う。

私なんかは家族も全員無事だったし、もっと大変だった人を思うと、自分を被災者とは思えない、という思いをずっと抱えていた。

そして震災で生き残ったものとして、代わりに生きなければならないという重圧感があった。
その重圧感は、震災その後の30年の自分の人生の中で、私にのしかかって来たのは否めない。

私は今日の過ごし方や、食べる物についても悩んだ。
30年だし神戸に行こうかと直前まで迷ったけれど、熊本で仕事することを選んだ。
1.17の前日の夕方に電話が鳴った。
今の現場は明日まででいいです、とのことだった。
1月いっぱいまで仕事をお願いしますと言われていたので、他の仕事も断ったりして、17日も熊本で仕事することを選んだのに、そんな仕打ちあるかい!!憤慨した。
そんなこんなで、1月17日の今日で今の現場は最後となった。
また来週からの仕事を必死に探した。
なんとか見つかった。

今日の夜は質素に済まそうかと思ったが、結局普通に食べた。
新しいお酒もあけ、献杯した。
阪神淡路大震災で亡くなられた方々への献杯と、
あの時と、そして今まで生き延びた自分に乾杯した。

そういうところなのだ。

献杯なのか、乾杯なのか。

そのこと1つに関しても、悩んだり罪悪感を覚えたりする。
どうしたらいいのか分からないのだ。

震災を伝える、遺す、ということが大切なことになっている、とニュースは言う。
若い子と一緒に働いているけれど、わざわざ言うのもうざがられると思って、言えない。
そんな色んな思いを抱えるのも、被災者の一つの責務なのかもしれない。

ただ1つ言えるのは、震災のことをいつか文書にして遺したい。
それをいつやるのか。
そう考えながら30年が過ぎた。

#阪神淡路大震災
#熊本地震

1月17日に熊本日日新聞に載った
阪神淡路大震災30年の特集
危険すぎてボツになった写真
中3の私と小5の妹
細いビニール紐の命綱
素手でモルタル
ツッコミどころがいっぱい

解体をはじめてからも、屋根に上るのが好き
献杯と
乾杯と

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