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人吉で謳う「満月の夕」〜阪神淡路大震災〜
Feb, 2021
♪ほ〜ねほねロックと歌われ続けたガリガリの幼少期。私は元来虚弱で大人しかった。
かと思えば好奇心旺盛で、
色んなものに見惚れていたら足を滑らせ、気付けば荒波にもまれている。
溺れそうになりながら大笑いしている。
自分はそんなトンチンカンな人間であるように思う。
紆余曲折を経て、2021年2月現在、
行き着いた先は熊本は人吉。
水害のあった人吉で、土木作業員として働いている。
ボーっと生きていた私を揺さぶったのは、1995年1月17日に起きた阪神淡路大震災である。
阪神淡路大震災から26年経った。
阪神淡路大震災の時に作られた歌、「満月の夕」を、今年、久しぶりに歌う機会が与えられた。
友人のピアノ伴奏は神戸から。
歌の私は人吉から。
神戸と人吉が繋がる。
歌うにあたり、当時のことをまた思い出した。
今ある自分が、あの時の延長線上にあるということも再確認した。
人前で歌うことを恥ずかしいと思っていたし、文章を読んでもらうことも同様だった。
でも今、書きだしたいと思う。
"紆余曲折"の部分を。
自分を紐解くように、少しずつ、少しずつ。
今回は、今年歌った「満月の夕」と、
「満月の夕」について書いた5年前の文章を載せたいと思う。
長文ではあるが、最後まで読んで頂けたらこれ幸いである。
2021年 「満月の夕」 KAORI&ERI
「言葉にいったい何の意味がある
満月の夕」
1995年1月17日、午前5時46分。の時分、私は中学校3年生であった。
広島から神戸に引っ越してきて2年目の冬。神戸は須磨区の稲葉町、日本聖公会神戸聖ヨハネ教会という、大正15年に建てられた、古い木造の教会に住んでいた。
阪神淡路大震災は突然やってきた。
ゴーーーという地球の唸りで目が覚めた。
一度グラッと揺れた瞬間、グルグルガツンと地球のジェットコースターに乗っていた。
中3ながらもクリスチャンである私は身を丸くし手を握り祈る。
「神様、助けて下さい!この揺れを止めて下さい!」
揺れはおさまらない。
「神様、お願いします、早く地震を止めて下さい!」
揺れは全くもっておさまらない。
「神様、、、、、、もうええってー!いつまで揺れんねーーーん!!」
実は20秒にも満たなかったという揺れの中、必死な祈りの集中力短く、2年間の関西生活で体得したツッコミを入れた頃、地震はおさまった。
父が南側の窓を開けた。
「次また揺れたらここから空き地に逃げろ、俺は竹内さんを見てくる」
「ウチらほってくんかーい!!」
と再びツッコミを入れたが父は暗闇に消えて行った。
その暗闇がようやく白ばみ始めた頃、妹と一緒に外に出てみてその惨劇に言葉を失った。
教会前の長屋は二階部分が崩れ、おばさんが生き埋めになっていた。
父や近所の人たちで必死の救出に当たったが、姿が見えた時には全身蒼白、意識もないまま自家用車で病院に運ばれて行った。
私は再び強く祈った。
「神様、あのおばさんを助けて下さい」。
しかし私は分かっていた。
現実はどれだけ祈っても叶えられないことばかりであることを。
それと同時にこの祈りが叶えられなかった場合、神様に対する裏切りを覚えるだろうであった私は、その日から祈ることをやめた。
案の定、おばさんは亡くなった。
稲場町界隈で亡くなった人は20名を数える。
その日のうちに父に連れられて車で長田に行った。
やっと行き着いた長田は燃え崩れている真っ最中で、それでも人々はその下を忙しなく行き来している。熱い。消防車もない。汲んでくる水もない。
ただ轟轟と燃え盛る家を見ていた。
父はひたすらガス栓を閉めまくっていた。
車での帰り道、外は刻々と暗さを増し、ああ日は暮れるんだという実感と共に、今朝暗闇の中で起こった地震がありありと思い出されていく。
教会に着いたのは夜で、街灯もない真っ暗闇の中、長田の上空だけが息を飲むほどのだいだい色で染まっていた。
建っているのが不思議なくらいのボロボロのヨハネ教会で、その日約40名が共に夜を明かした。
その夜私が見た灯。
生き残ったけれど死んだような顔をした被災者たちの顔を浮かび上がらせた、三本のろうそくの灯火。
暮れ行く空と反比例に色濃く燃え上あがっている、長田の炎。
傾いた壁の隙間から見えた、見えるはずのない星の光。
夜が来たことの恐怖に見上げれば浮かんでいた、真っ赤な満月の月光。
異国情緒あふれるオシャレでキレイな神戸という文明都市。
その裏に隠れるようにしかしはっきりと存在していた被差別部落、在日韓国朝鮮人の住む街、長田。
直下型大地震は容赦なく双方を襲い、長田は焼け野原となった。
阪神淡路大震災とは建物の崩壊だけではなく、人間の概念をも崩壊させた“事件”であった。
それは日本社会のルールという永遠と敷かれたレールを倒壊させ、絶対的存在を破壊した。
今まで見えなかったものに人々は気づき、今まで無視してきた自然の力に恐れ慄いた。
あの日、不気味に真っ赤に膨れ上がった満月は、
街の光が失われたがために更なる威厳を放ち、神戸の人々の脳裏に焼き付いて離れない。
文明社会神戸という都市で起こった大地震の意味、
人間とは何か、生きるとは何かということを、一人ひとりが感じ、考えさせられたのではないかと思う。
一か月後の満月にも大地震が起こるというデマが流れ、私は再び満月を見つめていた。
その一か月後の満月の1日前の夜、長田の南駒栄公園で、ちんどん楽団ソウル・フラワー・モノノケ・サミットによる慰問ライブが行われていた。
その日その月を見て作られたとされるのが「満月の夕」〈作詞/作曲 中川敬・山口洋〉である。
2015年NHKで放送された「『満月の夕』~震災が紡いだ歌の二〇年~」で再び注目を浴び、大きな反響を呼んだ。
大阪で地震に合い、被災地で慰問ライブを何度も行っていた中川敬の「満月の夕」。
東京にいながら被災地に想いを馳せて作った山口洋の「満月の夕」。
共作の奇妙な過程も相成り、その後も数多くのアーティストによってカバーされている。
「満月の夕」ほど不思議な詞はない。
「満月の夕」は被災者の心をわしづかみにして離さない。
その後全壊の認定を受けて新しく建て替えられたヨハネ教会は、阪神淡路大震災復興記念聖堂としてその新しい役割を担った。
震災の日には毎年記念礼拝が捧げられる。
3年前からは~忘れない 1.17~と銘打って若者有志の手で「YOSENABEコンサート※寄せ鍋は出ません(笑)」が始まった。
私たちも例にもれず、初回から「満月の夕」を歌っている。
ソウル・フラワー・ユニオンのチンドン屋よろしく、そこに山口洋の歌詞、「声のない叫びは煙となり 風に吹かれ空へと舞い上がる 言葉にいったい何の意味がある 乾く冬の夕」を織り交ぜた、私たちバージョンを歌っていた。
この歌を教えてくれた親友が私に提案するには、2016年の今年は沢知恵バージョンの「満月の夕」をやりたいと言う。
彼女はピアノ伴奏で手一杯だから私に一人で歌えと言う。オーマイガッド。
観念して練習を始める。
お風呂にiPadを持ち込んでYouTubeの沢知恵と一緒に歌うこととする。
ところが、歌が、歌えない、、、。
歌おうとすると、あの時の状況がありありとよみがえり、声にならない。
涙が出てきて止まらない。
半身浴をしながら汗と涙と鼻水でぐちゃぐちゃになる日々が一週間続いた。
全部出し切ったのかようやく落ち着いて歌えるようになった。
山口洋、沢知恵が、「言葉」にこだわったように、私もそこにこだわりを持っていた。
よくよく紐解いていくと、今まで自分が自分を“被災者”だと思っていないことに気が付いた。
何度かボランティアに行った長田の仮設住宅。
震災で母親を亡くしてから一回も笑わなくなった少女がいた。
少女の父親は言った。
「春は来たけど、ここに春は来ぉへんのや」。
桜咲き花びらさらさらと、
流るる先はプレハブ仮設住宅。
お花見に、外に出る人誰もなし。
私なんかがかける言葉は、びた一文もなかった。
ただただ話を聞いて心に留めるだけだった。
他の被災者を想うと、自分を被災者だと思うことができなかった。
外部から見たら自分も被災者には違いないのだが、“被災者”と自称できない自分がいた。
「言葉にいったい何の意味がある 満月の夕」、で終わる沢知恵の「満月の夕」。
「言葉にいったい何の意味がある」のかという絶望。
それでも私たちは言葉を、詞を歌っていくんだという意志を強く感じた。
詞とは言葉、言葉とは歌うこと。
~忘れない 1.17~。
なぜ忘れてはいけないのか、ずっと考えている。
震災から21年たった今、三宮は震災前よりずっとオシャレでキレイな街になった。
眩しくて震災が見えない。
震災で取り戻した人間本来の姿を忘れ、人と人との繋がりを忘れ、自然を忘れ、また震災で亡くなった人たちのことを忘れてはいまいか。
同じ街には21年経った今も震災の傷が癒えない人々がいる。東北にはいまだ苦しみの只中に人々がいる。
だから私はやはり~忘れない 1.17~「YOSENABEコンサート」で、色んなこと忘れないように、またそれ以上のメッセージを込めて、これからも「満月の夕」を歌い紡ぎたいと思う。
この震災こそ、人間の原点に立ち返ることができた、私自身の原点なのだから。
※2016年春号「キリスト教文化」(かんよう出版)に寄稿(一部修正あり)