名前も知らない彼。
何も考える間もなく自然と車の助手席に乗り込んだ。
そっと目を閉じて扉が閉まるとともに身体を解放し、
何かから追われていたような重たい荷物を下ろすように一息をついた。
運転席に座っている彼が近くにいた車が移動しやすいように器用にゆっくりとハンドルを回していた。
「親切だね。」
彼は黙って真っ直ぐを眺めていた。
私は彼の事を何も知らない。
何も知らないけれど謎の安心感が確かにそこにあった。
温度も感じないコンクリートの建物の中で気付けば身体が密着し後ろから抱きしめられていた。
初めてとは思えないくらいじわじわと温まる体温に身体が馴染んでいた。
窓の縁に置かれたチラシをずっと眺めていた。
そこには彼の名前があった。
「本当は昨日行かなきゃいけなかったんだけど
パティシエの勉強会、サボっちゃった。」
伸ばしっぱなしの髪がたまに私の頭に触れて下半身には硬いジーンズが気付けば当たっていた。
不思議と嫌ではなかった。
そこには永遠に続くような時間が流れていたから。
「今日もあと2時間後に出かけなきゃいけないんだけど」
彼は必要以上に言葉にしなかった。
言葉より態度で訴えてくるのが分かった。
自分から求めず謎に自信に溢れていて執着がないというか「嫌だったら逃げていいよ」というような表情で私の全てを抱きしめてくれていた。
まだ彼のことを何も知らないけれど、何も知らないままでも彼を愛せるんじゃないかと駄目な彼に抱きしめられたまま私はそっと目を閉じた。