こどもの障害をSNSの名前につけるおかあさんとおとうさんへ
Twitter などの SNS の名前で「わたしは障害のあるこどもを持っています」主張をするおかさんや、おとうさんをよく見かけます。それは ADS、自閉スペクトラム障害を持つわたしの視点から見るととても不可解なことです。
考えることが性分のわたしは、つい、考えてしまいます。どうしてその名前を名乗ってしまうの? と。
名前でこどもの障害を表明するのはどうして?
まず思いつくのは、その方が置かれた状況を他のひとにも知って欲しい、共有したいという欲求の表れではないかということです。そうすることで、同じ「問題」を抱えているひとが集まり、それに付随して情報も集まるという利点があるのではないかな、と推測できます。
障害をもったこどもの数は、そうでないこどもと比べるとどうしても少ない。そのために情報量も格段に少ないです。その中にはじぶんのこどもの障害に当てはまらないものも沢山あると思います。本当に大変ですよね。だから少しでも情報を集めたいということは理解できます。
じぶんの名前を「○○ちゃんのおかあさん」とし、その上にこどもの障害を加えるということは、「わたしはこんな障害をもったこどもの母親です」というラベリングです。ラベリングをすることで上記のように情報を集めやすい状況にするという利点はあります。
また、こどもの障害に真摯に向き合っている親だということを、世間にアピールもしやすいのではないでしょうか。
こどもの視点で考えてみる
ところで、こどもの立場を考えたことはありますか? はたしてこどもは、じぶんの障害をおかあさんやおとうさんが公に流布して回ることを望むでしょうか?
わたしは望みません。
わたしはじぶんが世間にとって障害となるじぶんの特性は認知しています。その上でこういいます。「わたしは個性を持ったひとりのひとです」と。他人との違いに目を取られ、目に映る「普通のこども」と同じような状態にこどもをコントロールしていくことが使命のように思えるかもしれません。こどもの障害をじぶんの名前にラベリングをすることで、こどもを「普通」にする決意を固くすることができます。
けれどそれは幸せに繋がるのでしょうか?
親の立場では、こどもが「普通」になることは幸せに繋がるのかもしれません。けれど、こどもは? あなたが「普通」をこどもに押しつけることは、「あなたはおかしい」というラベリングを、こどもにすることにも繋がります。 そしてこどもは「変なじぶん」を一生抱えて悩み続けます。そんな苦しみを、だれが望むでしょうか。
これは幸せではありません。そう、苦しいのです。
本当の「あなた」を見失っていませんか?
名前でこどもの障害を表明している親の書込みを見たとき、そこからわたしが受け取るメッセージはこれです。
「がんばっているわたしを見て」
確かに障害を持っているこどもの子育ては大変です。マイノリティであるがゆえに、指針となるものが少ないのも確かです。そのうえ、こどもが同じ年齢のこどもができることを「できない」のは親のせいだと責められることも多いでしょう。
そのときあなたは何に目を向けていますか?子育ての資料? 責めるひとたち? それとも「かわいそう」なあなたですか?
それよりもまず目をむけてほしいのは「こども」です。こどもという個人を見てください。かれらは常に感じ、考え、模索しています。あなたのことを見据えながら。
こどもは親のアイデンティティを受け継ぎます。これは教育とはちがう根の深いところでこどもを支配します。あなたが口から放つすべてのことばが、何の気なしに行う行動のすべてが、あなたのこどもというひとりの人間を形作ります。こどもがその呪縛から逃れるのはとても困難です。あなたが親の呪縛から逃れられていないように。
だからお願いしたいこと
ASD のわたしが、障害のあるこどもをもつ親におねがいしたいこと。それはこれです。
あなたがまず幸せになってください。
あなたが幸せを感じることを感じることが、まわりのひとたちを幸せにします。あなたが幸せに落ち着くことで、いま見えていないことがたくさん見えます。わたしはあなたがこどもの幸せを願っている、もしくは願っていたと信じています。
あなたが本当の幸せを受け入れること。そこからすべてがはじまります。