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Swinging Chandelier:16-浮雲

 ペルノに砂糖にレモンにソーダ。いつもの組み合わせにいつものカウンター。マスターのユキさんが作ったプレイリストがスピーカーから流れている。
 休日に街に出たものの、服でも化粧品でもなんだか見に行く気にあまりならず、景色の写真をスマホで撮ったりしてぶらぶらとしながらユキさんと天気の話なんかをメッセージでやりとりしていたら、友人だからと開店前から店に入れてくれた。
「元気なさげ?」
 ユキさんがチェイサーをテーブルに置く。わたしが頼まずとも、悪酔いしないようにといつも勝手にでてくる。それが嬉しいのか、なんなのか。
「疲れてるように見える?」
「見えるから訊いてんの」
「そっか」
 ちびりと酒を含む。アニスとレモンに少し砂糖の甘みがしゅわしゅわとする。
「……ねえ。男の人と結婚してからやっぱ女の人好きみたいな、そういう人もいるのかな」
 この間のアンズさんとの、白ロリと黒ゴス合わせの、ハロウィンデートのような日を思い出して私はつぶやく。明らかに恋愛のような好意を持たれている、ような気はする。けれどアンズさんが自覚的にビアンっぽいかと言われたらそれもまた違うような。
「うーん、そんな話聞かないでもないけど。なによ、真黎にそういう態度の女の子がいるわけ?」
 グラスを拭くユキさんは微笑んで、でも目を伏せがちにして答える。
「いや、まあ。よくわかんない。わたしは別にノンケってわけじゃないし好意は持たれてる気もするけど、なんかちょっと違う感じもして。まあでもいいや。やっぱ気にしないで」
「なんだそりゃ」
 しばらく店の中は音楽と、ユキさんがカウンターで働く音で過ぎた。わたしはカウンターに頬杖をついて、グラスの水滴を指でなぞったり意味もなくその透明な円柱の向こうを眺めようとしたりしていた。
「真黎の悩む原因があたしにあるなら、いくらでも謝るよ」
 頼んでいないおかわりを置いて、ユキさんが静かに言った。いつかの、自分のセクシュアリティーを受け入れないままの時期のユキさんがわたしと寝てみて、終わってみたらやっぱり女の人とは無理だと気づいてしまったあの日のことを気遣ってくれていることを知りながら、わたしはなんだか怒りも覚えて、飲み干した方のグラスをずい、と差し出した。
「別にユキさんのせいじゃないよ。大体あれは何年も前のことで、ユキさんはその場で謝ってくれたんじゃん。ていうかいま誰にどんな感情を向けられたって、どんな態度で返すかはわたしにしか決められないことなんだし」
 一気に言って今度は少し多めに酒を口に入れた。アニスとレモンがまた揺れて、それはまた、わたしの中にある色々の記憶にアクセスする。それをまた防ぐように煙草に火をつける。
「そうね」
 氷の解けたチェイサーを下げ、ユキさんは新しいものをわたしの前にだすと、テーブル席の間接照明をつけに行った。
 上向きにふっ、と口から吐き出した煙が天井のきらきらした照明に上がって、少し景色が霞んで見えればすぐに拡散して元に戻る。アルコールとニコチンは何かの延長に最適だ。
 ピコン、と、カウンターテーブルに置いていたスマホが光る。大学の同期の結婚式で知り合ったあの、新宿で食事をすると約束をした男からメッセージが入っていた。
「仕事が定時で上がったんだけど、もしよければお茶でも行かない?」
「ごめんなさい。今日も残業で。次回会うの楽しみにしていますから」
 引き延ばしている相手ではあるけれど、別にわたしは手間をかけたいわけではない、だからさっさと適当な返事を投げる。
「はぁーあ、」
 半分くらいになった二杯目をちびちびと口に含んで、二本目の煙草に火をつける。
「どうしたの?画面見て溜息ついて。あらもしかして、いいひと?」
 ユキさんはカウンターの内側に戻り際にわたしの髪を優しく撫でようとして、それから自制するように手を引っ込める。
「良くもないけど。まあ、男」
 わたしの「くだらないルーチン」をユキさんに話したことはない。けれどユキさんは勘づいている。
「……続けてるの?」
 そしてそんなわたしのことを、ユキさんは心から心配している、多分。
「大丈夫だよ。ビョーキとかニンシンとか、ちゃんと気をつけてるから。検査もピルもバッチリ」
 灰皿に煙草を押し付けて、わたしは少し嗤った。それはあからさまに、棘のあるものだった。
 時々、ユキさんはこちらが申し訳なくなるほどに優しい。卑屈にさえ見えてしまう時があって、そうするとわたしは余計にユキさんへの態度が悪くなりがちだ。わたしにとってユキさんは数少ない大切な人だ。恋人とか愛人とか家族とか、少しずつ当てはまりそうでそうはならなかった人が友人としている。そんなユキさんとわたしは多分、互いのどこかにある傷とか痛いものをなんとなく理解しながら、それでもどこか恐る恐る、笑ったり話したりお酒を飲んだりしている。
「真黎、」
 制止するような声を出すくせにユキさんの表情は静かで、窪み気味のまぶたから大きな黒目がまっすぐにこちらを見ている。それは少し哀しそうでどこか、なにかを諦めているような、そういう静かさだった。
「ごめん。ユキさんに意地悪言いたいわけじゃないんだ」
「うん。わかってる」
「でもわたし、ユキさんは大事だよ。それは変わらない」
「ふふ。それは嬉しいな。あたしも真黎は大事」
「そいや、最近彼氏さんとはどうなの?なかよし?」
 ユキさんの今日のメイクはややメタリックな翡翠色の目元にミルクティーみたいな白っぽい色のリップで、サイドに流したツーブロックヘアによくあっていた。
「なかよしだよ。アウトドアが趣味みたいだから友達同士のデイキャンとかハイキングとか一緒に行って楽しいし」
「それデートじゃなくない?」
「二人きりもいいけど、みんながいる中で二人でいられるって、すごく幸せなことなんだよ」
 そうだった。誰かの当たり前の景色の中に自分の幸せが一緒に映っている風景は、ユキさんやわたしのような人間にとっては時に、あまりにも眩しい。
「真黎の仕事で一緒だって言ってた、御子柴さんだっけ?最近会ったの?店にはたまに来てくれて嬉しいけど」
 少しうきうきした感じでユキさんが聞く。
 御子柴さんとはしばらく会えてないけれど、大貫経由で順調に仕事をこなしていることは知っている。
「最近会えてないけど、元気ならいいんじゃないかな」
「御子柴さん、たまに真黎に似てるように見えるよ。すぐにああ、違う子だなってわかるけど。不思議ね」
 なぜだかその時、試着室でわたしがボウタイを直した時のアンズさんの顔が浮かんだ。
「真黎、どしたの?」
「ん。なんでもない」
 カランカラン、と背中に店のドアが開く音がして新しい客が入る。外気がすっ、とボートネックの襟足を冷やした。
「帰るね」
「うん、また来てね」
 ユキさんだけでなくてこの場所もこの時間も、ただ大切にしたいと、軽い熱を含んだ頬を街の風に冷やして歩きながら、思った。

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