Swinging Chandelier:11-土曜の夜
鏡の前に立つ。あまり大きくはならなかった乳房、ジム通いで絞った腰、尖った肩、一五〇センチとあと少しあるかわからない背丈。作り込んで、いや作り物めいているから、かえって気分は楽になる。
鎖骨が綺麗に見えるボートネックの、ふくれ織りの生地を使って上半身を少しタイトにしながら、切り替えからソフトプリーツがふんわりと広がるシルエットのワンピースを着る。財布とスマホと化粧ポーチを入れたらもう容積が埋まってしまうくらいのハンドバッグ。まぶたにはスモーキーなライラックのグラデーションを含ませて少し物憂げになるように。口唇の色は僅かに滲んで見えるようなものを。靴は華奢なTストラップのエナメル。
時間潰しで行ったスターバックスの店員に「ネイル素敵ですね、お出かけですか?」
と爽やかな笑顔で言われ、「ええ仕事で」と、つい口に出したことを自分で笑う。確かにルーチンといえばルーチンだ。電車を乗り換えながら思う。
これから会うのは、マッチングアプリでわざわざ顔写真を送ってきた男。実物も写真と解離していなくて珍しいなと思いながら、この間一回食事だけのデートをした。わたしよりほんの少し歳が上の、髭の剃り跡の青みが強い、自分が働いている会社のネームバリューにプライドがある男。将来子供ができたら自分が高校生までやっていたサッカーを教えたいな、そういうのって憧れるよね。って言っていた男。
クリアタイムを競うタイプの仕事と思わなくもないけれど。でもやっぱり違うな。
くだらない遊び。
そんな定義が一番楽な、だるいルーチン。
スマホで文字のやり取りをして、実際に会ってお喋りをして。何を話すんだっけな、当たり障りがなくてでもどうでも良さそうには見えなくて適度に可愛らしくてつまらなくて、そういうものを。
クラシカルというよりは、都会的な雰囲気と駅に直結した真新しいビルに位置していることが売りの、二十三区内にあるイタリアン。すっと背の細い観葉植物の緑が、夜景を光らせる窓ガラスに滲む。天井からこぼれる光、硝子のシャンデリア。
ジャストサイズのオフィスカジュアルを身綺麗にまとった男がにこやかにやってくる。黒いタートルのニットにモスグリーンのジャケット、グレンチェックのスラックス。
「やあ。仕事帰り?」
「シフトが早上がりだったの。だから一回帰って着替えちゃった。やりすぎ?」
「わざわざおしゃれしてきてくれて嬉しいよ。ちょっと気取った店だけど、まあ楽しんで。ワイン飲む?」
「ありがとう。お酒は少しで平気。ええと、そうね。スパークリングがいいかな、甘すぎないやつ」
前菜。人参のムース。天然茸のソテー。玉葱の一口キッシュ。
「シフトってカレンダーどおりじゃないの?」
「基本はカレンダー通りだけど結構時間移したりできるの。平日休む分土日に回したりとかもしてて、結構フレキシブルなの」
「生活時間狂ったりしないの?」
「んー。わたしとしては好きなように仕事ができて嬉しいかな」
「はは。おれはきっちり分けて生活したいなー」
パスタ。カラスミと軽いクリームのフェットチーネ。
「普段料理とかする?」
「仕事があるとなかなか時間が作れなくて」
「休みの日に作り置きするといいって聞いたな。もしかして、料理苦手?」
「料理自体は好き。トマトのスープとか」
「へえ」
肉料理。仔羊のヒレ肉の炭火焼き。セミドライドライトマトにパプリカのオイルマリネ。ローズマリー風味のポテト添え。
「全部食べられそう?真黎さん細いから」
「一緒にお話しながら少しずつ食べていると、案外入っちゃう。とはいえだいぶお腹いっぱい」
「でもデザートは別腹?」
「確かに甘いものって素敵」
デザート。季節の柑橘のソルベ。渋皮煮を乗せた和栗のムース。ピスタチオのビスキュイとガナッシュクリームの小さなオペラ。
「休日は何してるの?」
「ジム行ったり買い物したり、本読んだり散歩したり」
「はは。一人を満喫したいタイプ?」
「だって休日も平日も特に違いがないもの」
「え、」
「なんでもないわ。ねえそれより、このケーキすごく美味しい。素敵なお店に連れてきてくれてありがとう」
そうやって淡く微笑む。
「よかった。女の人ってこういうレストランだとたくさん写真撮るイメージがあってさ。真黎さんはそういう感じじゃないから楽しんでくれてるのか少し不安だったよ」
「かえって気を遣わせちゃった?はしゃぎすぎるのもお行儀が良くないかと思って」
単に、必要がないから撮らなかっただけで。
食後の飲み物はダブルのエスプレッソ。カップの中の鏡面に映り込むのは天井の……いやそれはいい。角砂糖は、やっぱりそれも今はいらない。
「はじめて会った時もそうだったけど、真黎さんはいつも綺麗にしてるんだね」
カップを持つわたしの指を男が見ている。爪の先から手首の骨と肘をとおって鎖骨、一旦胸まで降りてから顎と、そうして目線が合う。
「仕事で外の人にも会うし、おしゃれは多分、好きな方だから」
「ジム行って躯を整えたりさ、フルタイムで働きながら忙しいのに大変じゃない?まあ男としてはいつも綺麗で居てくれたら嬉しいけど」
「自分で稼いだお金を自分のために使うって、楽しいと思わない?」
テーブルの下で脚を組み替える。目線を合わせたままわたしは笑顔のままでいる。
「若いうちはそれでいいだろうけど。結婚とか出産とかライフステージが変わるとそうも言ってられないんじゃない?」
これは、金のかかる女だと思い始めたな。それでいい。わたしは全てを浪費し切るつもりだから、今のところは。
「堅実なのね。わたしは、あまりそういうの実感がわかなくて。今は好きなだけ働けて身軽だからかな」
「真黎さんは仕事が好きで自立もできてる。でもバリキャリってほどガツガツしてる感じはしないからさ」
「そう?」
「男の方が仕事は安定しやすいし、女の人だって働き続けるにしても落ち着くタイミングを見計らうのって大事だと思うよ?」
女のキャリアはたかが知れている、若い時は良くても売れ残ってからでは遅い。その点自分は堅実なビジネスパーソンで現実をしっかり見られているし、女にそれを教えることもできる。隠しきれずにいる驕慢。
貼り付けていた微笑みの口唇の端が歪んだものになるのを、わたしはこらえる。
「ごめんね困らせたいわけじゃないだ。ほら、真黎さん背丈が低めなのもあるのかな、変な意味じゃないよ?仕事もおしゃれも一生懸命な姿がこう、背伸びしてるみたいで可愛いからさ、つい」
可愛い。確かに、こういう時に使う言葉だったか。
「ううん。ありがとう」
デミタスカップの鏡面にシャンデリア。残りを一息に干して仔羊の脂もデザートの甘みも全部エスプレッソの苦味で切り落とす。
この男から見たわたしはきっとそう、女の割に仕事が好きで自分で稼いだ金を全て自分のために使えて自分を飾ることに金を使っていて、「彼女」にして連れ歩くには良いけれど妻や家庭には不向きそうな女。けれど男の方から教えたり諭したりすれば心地よく形を変えるかもしれない、そんな可愛らしい、女。
こんなふうになんでもすぐ定義づけられる。それが、世界ということ。それでなんでも簡単に名前がついて、あなたはこんな人よねってジャンルができて誰でもなんでも簡単に好きになれるし簡単に嫌いになったりどうでも良くなったりできる。それはとても楽なことで、きっととてもこわいことで、わたしも同じことを繰り返しながらこうして浪費していく。
「ところで、このあと時間大丈夫?」
ほら来た。母親役や堅実な妻とは今は違うけれどお楽しみにはなりそうな、きっとそんな立ち位置。すごくちょうどいい。ぴったりだ。
「ええ、もちろん」
コース料理の後だし流石に終電は難しいだろう。泊まりは得意な方ではないが、今日はこのまま進めた方がいい。
わたしは膝の上のナプキンを四つ折りにしてテーブルへ置いた。
淡く、浅はかな微笑を夜へ向けて投げる。
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