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Swinging Chandelier:10 赤い夜

本作『Swinging Chandelier』は暁夜花さま作『戯れシリーズ』における登場人物がクロスオーバーします。また、こちらで公開された作品は全て、事前に暁夜花さまの目を通してあることをお伝えいたします。


Swinging Chandelier:10赤い夜

 大貫たちの会社とのコラボ企画も動きが少し落ち着いてきて、それ以外にも企画イベントなどは特になく、内勤だけで済む期間にいる。ジムに行く時間を増やしやすくなったり、買い物だってゆっくり時間をかけやすくなったりしているはずが、却って持て余すような心地になっている。
 仕事帰りの電車の窓のぎりぎりにおでこを近づけて、引き裂かれるように滑っていく景色を眺めている。さほど苦しくもなく続いていく日常、今日。
 ヒールの上に乗る踵を少し痛いと感じながら景色を眺めて、踏切を過ぎるときのサイレンが間延びした悲鳴のように聞こえた。
 仕事を終えてもどこかに寄る気分にはなれず、大人しく帰宅することにして時間の使い方を思案する。久しぶりに料理でも、どうせなら魚とか厚揚げとか焼いたりして飲んじゃおうかな、帰り道に日本酒が揃ってる酒屋もあるし。それに誰にも会わないから、どんな顔色でも飲んでいられる。寝巻パジャマのまま、洗いっぱなしの髪のままでいい。そんなことを思えば少しうきうきと、安心する。
 一人でも、食べて眠って起きて、動ける。
 酔いが醒めたら歯を磨いてストレッチをして、ベッドに入ればいいだけ。お風呂は気持ちいい。布団はやわらかい。眠ってしまえば勝手に朝はやってくる。起き上がって顔を洗って、少し胃に何か入れて、身支度を整えたら外に出ればいいだけ。会社に行けば仕事はある。だから毎日、生きていける。
 改札をくぐって、わたしはカツコツとヒールを鳴らした。

 スーパーで安くなっていたブリのカマを買って帰って塩焼きにして、柚子胡椒を添えて辛口の純吟に合わせた。少し早いペースで飲んだ二合瓶はもう空で、部屋が少し魚臭くなったので窓を開けるついでに煙草に火をつけながら、何のために換気しているんだかと少し笑う。薄着のまま裸足でベランダにいると寒いが、酔って顔は熱いから風が気持ちいい。鰤に合うからって柚子胡椒ひと瓶買っちゃったけれど、使い切れる気がしない。冷凍すればいいんだよって、前におばあちゃんが教えてくれたような、まあいいか。
 ベランダの下には、夜のまばらな人通りの景色。繁華街と住宅地、川と緑地公園、それらが狭い密度に集まったこの街の、駅から大体十分と少し歩いた場所にある小さなマンションの三階。それが今のわたしの住処だ。繁華街の猥雑なざわめきと雑木林の遊歩道にある静けさ、それらは層を持ったまま混ざり合って、同時に窓の外からこの部屋にやってくる。
 その空気を浴びてぼんやりと煙草を吸い続けながらわたしは、かつてただ一度、大貫隆幸と向かいあったことを思い出す。
 あの頃のわたしは髪を肩の下くらいまで伸ばして、編み込んだり緩く一つに結んだりして、本と煙草を詰め込んだ鞄を下げていた。大学は、好きな場所だった。講義に集中すると却って退屈そうな顔になるらしく、教授もゼミ仲間もよくそれを面白がっていた。
 大貫は一学年下で、背が高くて、不器用そうな割には周りにちゃんと馴染めて、たまたま授業が一緒になった、学科の違うわたしとどういうわけだかよく一緒に学食で過ごす、そんな後輩だった。

 骨のしっかりした大きな、けれどとても柔らかい手のひらだった。向かい合ったらその手のひらが、わたしの胸の内側までずぶりと沈み込んだ。そうして腹腔をさらに下へと辿る。
 一瞬わたしは呼吸を止める。ああきっと悟られてしまう。わたしの内部の、そのうつろ。塗籠ぬりごめの闇に。
 闇の奥へ、その手のひらは探り、辿る。
 わたしは走った。そして、もう逃れようのない塗籠の闇の隅っこで立ち竦む。
 そこには冷たい風が吹いていたはずなのに、あの男はまっすぐに顔を上げて、迷いもしないで辿り着いた。わたしの温度が上がるのを、見逃すことはなかった。
 闇の中でわたしは振り返る。
 ゆるり、わたしからこぼれたものがあった。
 大貫は一度たじろいでそれから、全て受け容れるような顔をした。
 本来その内側にずっと、わたしではない別の誰かを抱えていたくせに。
 拭っても拭っても消えないその誰かの存在を大貫の中に見たのは、わたしが大貫と親しくなってすぐだった。そして大貫はその存在を明確には意識できていないようで、逆に言えば、それだけ深いところに刻み込まれているように、わたしには見えた。
 大貫は、自分の中に居るその誰かを振り切ろうとするかのように他の女と付き合おうと試みたり、サークルの飲み会に参加して出会いを探したりしていた。
 わたしは、そのことに気づいていた。
 大貫は女に振られたりあしらわれたりする度に「だめだった、自分はモテない。情けない男なんだ」
 というような話をわたしにしてきていた。甘えるように、少しの逃げ場所をわたしに求めるように。
「どうせお前は、今に誰だって抱けるようになる。食べ終わった食器を食堂の返却口に移すくらい簡単に。何も考えず、さほど欲しくない時でさえ」
 甘えられたわたしは、そう言ってやりたかった。
 だからあの日わたしは挑発した。テスト明けとか休日前とかにいつも一緒に行っていた安居酒屋の、いつもの席で。
「こわいの?」
 確かにわたしはそう言った。

 どうせ喰い散らかすのだろうと、わたしは思っていた。わたしが挑発したあの時に大貫が見せた苛立ち、その中にそんな欲求があるのをわたしは確かに見た。なのにわたしの予想を裏切って、大貫は責任を取ろうとした。わたしの心を預かろうとさえした。咬み傷だけつけたら逃げると思っていたのに。
 拭い去れないほどその内側に居続ける人がありながら、優しさを愛に似たものに変えてわたしを受け容れようとした。
 耐えられない。
 わたしはきっと甘えて、骨まで全部溶けてしまう。わたしだってきっと、愛せやしないのに。
 優しくされることも優しい指に撫でられることも未来を見る目で見つめられることも、苦痛だった。
 そうして手を振り解いた。許せなくなる前に。
 優しくて、強欲な男。
 灯りがついたらすぐに吹き消して。こんな暗闇でとろとろと燃えつづけるのは、耐えられない。
 そんな四年生の終わり頃。今より若くて、互いに無防備だった。わたしは曖昧に笑い続けて卒業式までに何かを塞いだ。あの三月の雪の日に手を振って笑顔のままわたしたちは離れ、どちらも大人になってしまった。少なくとも、社会的には。
 学生の頃から大貫の中にずっと居たのは御子柴さん。
 ああでもわたしだって、綺麗な御子柴さんを初めて見た時、この人とならもしかして、なんてちょっと思って御子柴さんのこと、欲しかった、いや違うな。羨ましいのかな。よくわからない。御子柴さんは、強欲で優しい男を見つめている。わたしよりずっとまっすぐな目で。大貫も御子柴さんも、育むべき大事な関係性を見失わない。
 まいったな。油断すると頭が正気に戻ってしまう。わたしは誰かのことを好いているのだっけ。
 ユキさんのこと好きだった。ユキさんはわたしを疵物きずものにしたと思って苦しんだ。
 ずっと一緒に居て多分今までで一番長く付き合った、あの人のことも、好きだったし少なくともあの頃は、愛しているとか大切だとか、そういうふうに信じていた。あの人は今、オスロで誰かの親になっている。
 大貫と御子柴さんは両思い。
 わたしはベランダで煙草を吸っている。
 吹きつける風に足の指先は冷たくなって、酔いももう醒めてきてしまう。
 外に見える都会の夜の淵は、街の灯りを反射していやに赤い。いつもそうだ。いつもどおりに。


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