Swinging Chandelier:7 ブライズメイド・下
Swinging Chandelier:7 ブライズメイド・下
カツコツと、ヒールが踵に響く。カツコツと、最寄駅から自宅までの道のりを歩く。十一時近い駅前のビル風を浴びながら、歩く。
夕食にアンズさんと入ったのは、わたしがさゆりさんとたまに行っているイタリアンバル。カウンターとテーブルがあり、入店時に店員がイタリア語で挨拶する感じの、お通しに揚げたパスタが出るような店。
わたしがデカンタで頼んだ赤いサングリアに、まな板に盛り付けられた生ハムやサラミに、きれいな緑色のバジルソースがかかったチキンのグリルに、アンズさんはいちいち喜んでいた。そしてその無邪気そうな喜びの語尾のあたりには大体、真黎さんって大人でかっこいいな、が付いた。
「真黎さんは、こういう店よく来るの?」
「会社の先輩と一緒が多いかな。大抵こういう店の料理はシェア用だから、一人だと使いにくくて」
「え、先輩?」
アンズさんの睫毛がふっと、スポットライトのように照らしていた間接照明の影に入る。
「お姉ちゃんみたいな人ですよ。入社した時から仕事教わってる感じの」
「なぁんだ。良かった。女の人なのね」
サングリアは口当たりがいい。そのせいかアンズさんは割と早いペースで飲み進める。お酒にあまり強くないの、と言っていたが。
アンズさんはよく話した。
真黎さんがこの間のイベントで「中食」って言ってくれたのを、家でもやってみたら旦那も喜んでくれて、家事もおろそかにならないしイラストも集中できたの、とか。よく覚えてるなそんな話。
わたしはサングリアのグラスを傾けて、アンズさんが語る「うまくいく生活」の骨組みそれ自体に軋みを感じながら、その微妙な居心地の悪さの所在はどこなんだろうと、思う。
このサングリアにはスターアニスが入っている。甘く匂うそれは、八角。アニスと似て非なるもの。
アンズさんの服装、甘ロリの路線に近いけれど、でも普通の枠からはギリギリはみ出てませんよみたいな、本当に可愛いだけで他意はないんですみたいな、そんな系統に見えなくもない。
「初めて会った時は確か『ワンダーティーパーティー』のワンピース着てましたよね。あのブランドはコレクションの販売数自体も少ないし再販もやらないから、狙って手に入れるの大変だったんじゃない?」
「ちょっと無理して買った感はあったんだけど。服に負けてなかったらいいなーなんて」
「お似合いでした。白ロリ系好きなの?今日は違う感じだけど」
チキンを切り分けた皿を渡す。アンズさんの小さな爪は、今日は何も塗られていない。
「あの、ロリータファッションって『痛く』ないかなって、思って。あんまりコスプレみたいな格好じゃなくて、今日はちゃんと会いたくて、それで」
それでニットアンサンブルにスカート。乙女だけど「痛い子」じゃない、きちんとTPOを弁えた可愛いオンナノコ、ね。
「さあ。どんな服でも、それを着て鏡を見た時に素敵だなって思えたら、それが『似合ってる』ということだと思うけど。だから好きに着たらいいんじゃない?」
わたしはにこりと微笑んで、カトラリーケースを渡す。添えてあるチーズが固まらないうちに食べた方が美味しいよこれ、なんて言いながら。
「え、あ、その。でも、でも、似合うって言われたら嬉しいです。女の人同士でこんなに楽しい時間、初めてだし」
アンズさんの返答には「嬉しい」と「わたし間違えてないよね?」がよく混合されている。
「アンズさん女子会苦手?」
「苦手、っていうかもちろん嫌いじゃないですよ。でもなんかお酒の席ってあんまりないっていうか、あー、でも男の人がいてももっと緊張しちゃうし、」
「男の人?」
前に一緒にいた、あの男?とまでは言わないが。
グラスから目を離してゆっくりアンズさんの表情を見れば、酔って緩んでいた中に小さく引き攣れが生まれている。
「え、っと。大人っぽい女の人と一緒だと、やっぱり素敵な時間だなって」
「ふぅん」
「真黎さんだったら男の人と一緒でも澄ましてお酒とか飲めちゃうんだろうな。場慣れしてそうだもん。このお店に入ったときもエスコートしてもらっちゃたし料理とかお酒とか頼むのもスマートだし」
「遊んでそうに見える?」
笑いながらわたしは、空いたアンズさんのグラスにサングリアを注ぐ。
「えっ、あ、と。ごめんなさい、そういう意味じゃなくて」
「あはは冗談。褒めても何も出ないよって言いたかっただけだよ」
アンズさんにとってわたしは「男」ほど緊張しなくて「女」よりちょっとどきどきする。なにそれ、女子校の中性的なお姉様っぽい。
そいえばアンズさん、チェイサーをほとんど入れていない。見るからに酔っているのに。さっきの喫茶店ではミルクティーより水ばかり飲んでいたのに。
デザート頼む?とメニューを広げて、わたしはピスタチオのジェラートを、アンズさんは洋梨の、と言いかけてミルクのジェラートをオーダーする。
「わたしね、イラスト描く時にライブ配信とかしてて、で、結構うまくいってるかなって思ってたんだけど」
あ、袖が、ジェラートに、
「大丈夫?」
「え?あっ、あ」
袖を汚さないように手首ごと掴んだら、アンズさんは目をパチパチさせてさっきの喫茶店で見せていた、水ばかり飲む顔にちょっと戻った。
「それで、配信?定期的にやってるの?」
わたしはすぐにピスタチオのジェラートに視線を戻す。
「あ、の。そうなの。それで、結構コメントとかコインとか貰えてて、上手くいってるって思ってたのね。でもこの間オフ会に行ってみて、やっぱりプロの人は全然違うって、思って、それで、」
プロ、とはいえ。クリエイター、作家なんてのは物好きを仕事にしているから、気負う方が却って力が出せなくなるなんて人はザラにいるんだけど。もちろん何にでも基礎はあるからそこは押さえておく必要はあるが。
「良かったら、真黎さんに配信聞いてもらえたら嬉しくて」
水の代わりなのか、アンズさんが、甘い赤いサングリアを口に含む。咽喉が上下して、喫茶店の時と違うのはその肌色が夜桜のようであること。
「うーん。わたしの仕事が仕事なだけに、正式契約していない人に対してマネジメントをしているように受け取られる行動はできないけど、」
アンズさんが欲しいのは仕事のマネジメントじゃない。多分。
「あ、閲覧だけなら誰が見てるかわからないから、その辺は大丈夫っ」
「そう。考えとく」
最後の赤いサングリアをわたしは飲み干す。アンズさんは心細い仔犬みたいな顔をする。可愛い、可愛い顔。
カツコツ、カツコツ、ヒールの音を一人で聞きながら、思い返す。
会計を済ませてトイレのパウダールーム、口紅を塗り直していたら指を咥えたような顔の可愛いオンナノコが鏡の中に居た。
「塗ってみる?この色」
アンズさんの返答を待たずにわたしはベルベットローズを薬指に少し取り、薄く乾いた口唇にぼかすように塗った。アンズさんの肩が少し震える。わたしは、アンズさんより自分の方が、背の低いことに気づく。アンズさんが酔っているせいなのかわたしの指が冷たいせいなのかその口唇は、じわりとする温度だった。
「わ、たし、口唇が薄いの、だから、濃い色は、」
怯えたように期待をする顔。
「どんな色も、自分次第じゃない?イラストレーターさん?」
ポーチのファスナーを閉めてわたしは微笑む。それまでコーラルだったアンズさんの口唇は、薄く剃刀で開いたような紅色になって鏡に映った。
「真黎さん、好きな人とか、いますか?」
別れ際、少し寂しそうに言うので、好きな人も付き合ってる人も今はいないよと答えた。
「真黎さんって、男の人にも女の人にもモテそう、」
ぽつりと漏らす。
「そういう世界でも、真黎さんなら生きていけそう。あっ、視野とかそういう意味で、変な意味じゃないのっ」
「そういう」世界でもどうでも別に、結局その違いはなんなのか。理解できるけれど理解したくない事柄がそこにあって、わたしはそれを無視して、笑う。
「今は仕事も充実してるし、こうしてアンズさんみたいな人と一緒にお喋りしてる方が、楽しいよ?」
「本当?嬉しい」
そう、アンズさん、みたいな。
カツコツ、カツコツ、歩きながら。わたしが今感じているもの。背後から頸に這わされた指、それがどんどん食い込んできて締め上げられる。その指は細いくせに柔らかくまるみがあって、薄桃色の爪までついている。そして高く上擦った声が引き止める。
お洒落で大人でお酒を飲んで男と遊んでそうな真黎さん、わたしのためにそのままでいてね?と。
で、結局わたしは賢明な判断を全部へし折って、「楽しめる」ということ以外は何一つメリットのない遊びをまた一つ始めるわけだ。
やっと家。まず煙草吸って、お風呂入って。固まった腱をいつものストレッチで早く伸ばして、早く頭を、くだらないことだらけにしなくては。秋っぽくなってきたから去年買ったファー付きのブーティー、明日履こう。靴擦れができたら嫌だから絆創膏出して。仕事、次のハンドメイドイベントの出展者リストを確認してブースとキャンセル枠の調整して、帰りにジムに寄ってピラティスのクラスに行って。良かった、やる事は山ほどある。今朝毛布にファブリックミストかけておいて良かった、ラベンダーとフランキンセンスのにおい。
何日か後に、アンズさんからライブ配信チャンネルのURLが送られてきたので開いた。
十五分も聴いていられずに切ってしまった。
別に脱ぐとかエロ絵の実況とかそういう類のものではなく、ただ画面には可愛らしいイラストが描かれる工程が写り、アンズさんが解説や雑談を入れていくというものなのだが。
そこに群がるもの、チャット形式になったリスナーの声。それが画面には一緒に表示されている。
群がるというよりは、蝕むものに、わたしには見えた。
その声にアンズさんが応答すると時折、換金できる「コイン」が流れ星のように画面に降る。
「オタクだけどカワイイ系チューバーのアンズ」にたかるそれら、可愛いオンナノコを応援して求めて作る、配信のその一部。そしてアンズさんも得ている。現実の世界に交換できるコインと、求められて作り上げて配信された「オタクだけどカワイイ系チューバーのアンズ」自身、結ばれた像は永遠の乙女。アンズさんが追いかける、正解の形。
吐き気がするほど面白くて献身的。
知ってるよ、その快楽。苦しいだろ?
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