お茶代6月課題
今回は脱輪さんの「イグジット・スルー・ザ・代理満足ギフトショップ ~アーバンギャルド『アバンデミック』批判/twinpale『ショートケーカーズ』礼賛から生活のアナキズムへのドライブスルー~」に対する感想文です。
資本主義の犬になりたい☆彡
と、たまに言っている。ここで言う「資本主義の犬」とは資本主義社会のなかで割とお金を儲けていてイキイキと経済を回している人間を指す。
けれど私は金を儲けるのはヘタクソだし、ビジネスベースの思考の組み上げにとにかく相性も悪く、そもそも金持ちではない。金持ちではないけれど物欲はそれなりにあるし、NARSのリニューアルしたリキッドファンデは気になるしそろそろHAREのスカートも見に行きたいしライブに行ったら物販には並びたい。
資本主義の犬にはなれないけれど、資本主義の中で資本主義の圧倒的な力に翻弄されながら生きている。つまり資本主義の奴隷をやっている。
「資本主義の犬になりてぇ……」は反語的な遠吠えのつもりで言っている。
ぼく、ひろえモン
ひろえもんという単語を見て爆笑した。最適な記号づけだと思った。脱輪さんの言葉を借りるならコスパ・ニヒリズムの権化、最終モンスターがひろえもんだ。ぼくもひろえもんに尻尾を振って頭のいい人になってお金が沢山ほしい、と思おうかなと思わなくもなかったけれど、どう足掻いても無理だった。シンプルにキモかった。なぜシンプルにキモいと感じたのかは多分最後まで読んだらわかる、かもしれない。
でもわかったことがある。最終モンスターひろえもんコスパ・ニヒリズムが肌感覚としてナチュラルな人は「資本主義の犬になりたい☆彡」なんて絶対言わない。いや、多分。
という、ぐるぐるを抱えているので「資本主義の犬なりたいけどなれない資本主義の奴隷でぇす☆彡」と言い回る。
つまりそう、「せめて自覚はしておくわね」と、せいぜい格好つけてみせている。
自撮のススメ×おでんマン
元々『イグジット・スルー・ザ・代理満足ギフトショップ ~アーバンギャルド『アバンデミック』批判/twinpale『ショートケーカーズ』礼賛から生活のアナキズムへのドライブスルー~』(以下:イグジット・スルー・ザ・代理満足ギフトショップ)はアーバンギャルドというバンドの批評だったはずだ。私の記憶違いでなければ。
しかし私はそれがバンドの名前であるということさえ知らず、おそらく脱輪さんのスペースで頓珍漢なことを言ったと思う。大変恥ずかしい。穴を掘って入りたい。
穴の中で記事を読むために、YouTubeでアーバンギャルドを検索してバックグラウンド再生しながら読むことに決めた。「なんかsound horizon」という感想が最初に浮かんだ。松永天馬に何かRevo的なプロデュース性を見出したので。サンホラの話は長いから今はしない。
ちょうど記事でおでんおじさんこと成田悠輔の「老人は集団自決を」の部分に触れたとき「自撮入門♪自撮入門♪」と耳に入ってきた。天啓である。私は穴を出た。
穴を出たらそこは密林だった。方向もわからず、しょっちゅう足を踏み外す。私は密林で脱輪したのだ。
わかったつもりでなんとなく通り過ぎてしまう繁みや窪みに何度も差し掛かり、振り返っては葉っぱをガサゴソ探ってみたり靴についた土を手に取ってみたりする。なるほど、わからん。いやわかるような気がしている、いやわからん。この森は蜃気楼か何かであろうか。この「わからなさ」の正体。
ばっと上から下に目を通すと『イグジット・スルー・ザ・代理満足ギフトショップ』の文章から定点を見つけ出すのは困難だ。主題とか主眼、に置き換えてもいい。批評や論評は話がどんなに広がっても大抵この定点に向けて、川の支流のように収束される。そうでないと話が成立しないからだ。が、この記事はその形式をどこかわざとそらしている節がある。読み進めれば何かわかったような感じがする、なにが?わからない。この繰り返しだ。意図的だとしたらなぜこんなことをしたのか。
スペースやTwitterなどで脱輪さんと会話をすることがある。そうするとなんとなく、この人はこんなことが嫌いでこんなことが好きで、こんなふうに世界を捉えていそうだな、とかそんなことを私は読み取る(もちろん勝手にだが)。その状態で『イグジットスルー・ザ・代理満足ギフトショップ』を読むと密林の中で暴風雨にさらされることとなる。
多様性は暴力
まずこれでつまづいた。いきなりどうした、である。
「暴力」や「加害」といったキーワードが「多様性」概念に反するものとして当たり前のように使用されることはだから、社会的な抑圧に抗するための過渡的な段階として大いに健全で正しいとしても、人と人が関わり合って生きていくための理念としてはやはり、根本的に間違っている。」
この繁みがあるので私はまた引き返して葉っぱをガサゴソした。言葉をチューニングしないといけない。つまりこの記事の中では他者との出会い、いやそもそも他者性とは暴力であるということだ。これは「異なる」ということはすでに暴力であると言っているし、おそらくこの暴力に対しては善悪の評価軸は使用されない。そしてこの暴力は個人を個人たらしめるものであり、世界には他者があふれていると示している。この繁みで採取した葉を頼りに進むと、「推し”概念のカジュアルな蔓延="推し活"をひどく警戒している。」までスムーズに行ける。内向的に摩擦のないラベリングを施された行為が推し活であるなら、ここに「他者」はいないのだ。とすれば、コスパ・ニヒリズムは代用羊水に浮かぶ生まれ得ない胎児の夢の集合を想起させる。
脱輪さんに言わせれば「天使化」だろうか。そう考えるとちょっと素敵だけれども。
さて数ヶ月前、「韓国の若者向け屋台」をコンセプトにした感じの韓国料理屋に入った。店の中にピンクや青の電飾看板が置かれ、メニューはチキンやサムギョプサルなど。雰囲気が好きなので何度か利用していた。隣のテーブルは二十歳前後の二人連れだった。その二人は演劇かアイドルか、とにかく劇場やライブハウスで、パフォーマンス以外にも「ふれあえる」距離の「推し」について話し込んでいた。その話題は推しのパフォーマンス内容、演技とか歌詞とか演奏とか、ではなく、推しの私生活やSNSについてだった。「道を歩いている時にわざわざ顔を隠したりして、そんな大物でもないのに」とかそんな内容だったと思う。私はこの会話を聞いた時に今テーマしている『イグジット・スルー・ザ・代理満足ギフトショップ』を思い出した。これが「推し活」による他者の透明化かあ。タッカンマリ美味いな。
ただ、脱輪さんと私でチューニングの合わない言葉がある。それが「暴力」だった。私は「推し活における対象の非人間化」に対しても「暴力」を当てはめていくタイプだ。
おそらく私と脱輪さんには決定的に合わないもの、開示すれば互いに軽蔑するような齟齬や断絶があるはずだ。ではなぜ私が定期的にお茶代を書いているのかというと、その齟齬、断絶を知りつつ「なんか良さげ」を見つけておりまた、書き物をしたり話したりする中で齟齬や断絶を紐解くことが面白いからなのだと思う。そういう意味でお茶代は、文字通り狂気の善意のもとにある他者の集まりだ。
もう少し推し活とコスパ・ニヒリズムに関連した話をすると、推し活を、私は宗教とは捉えない。仕組みはよく似ているけれど。なぜなら宗教とはその内部に批評性を保持しておかねばならないからだ。ただこれは、宗教の中でも信仰よりは神学に近いと言われやすい。神学は学問で、何世紀にもわたり教義の解釈や信仰そのものにたいする議論を、それこそ批評してきたから。
訳あって私はキリスト教の、特にプロテスタントのコミュニティと交流を持っているが、一般的に想像されるような「純粋な信仰心」を持つことができなかった。それは私が「神を絶対的に覆らず、間違えず、全ての上に立つような存在」として捉えることを拒絶するからだ。私は、神と人が平等であって初めて祈りや信仰が成立すると考えてはいるが、キリスト教コミュニティでこういうことを言うのはハイリスクなのだ。
まあだから、推し活と信仰生活は似ているのかもしれない。定められた教義、定められた聖書理解、定められた牧師、に対して批評的な目を向けるとすぐに異端だのサタンだのと言われてしまう。だとすれば私の方から向こうに「宗教の推し活化」と言ってやる他あるまい。
きっと私は、宗教を「推し活」にしたくないのだろう。キリスト教に限らず、宗教そのものが私にとって大切なものだから。ここまで書いて思った、二十一世紀の宗教がコスパ・ニヒリズムに融合しているとしたら、背筋が寒くはならないか。
資本主義から書き始めたらキリスト教の話をしている。コーラがあれば最強だ。やはり天啓はあったのだ。でも最後までわからない、なんでアーバンギャルドでなくてはならなかったのか。
仮説を立てた。
「アーバンギャルドのパフォーマンスや歌詞などは社会に批評的な目を向けて作成されておりながら、プロデュースとパフォーマーがおじさん(失礼)と女の子とでなんかオタ文化っぽい装飾で一見コスパニヒリズムのテンプレートみたいな感じをしていてそれでいてファンダムに批評性がないとされたから」
これしか思いつかない。密林の出口か入り口か。ただ、コスパ・ニヒリズムに推し活の警戒、他者という暴力を通しで書くにあたって、アーバンギャルドが最初のドアの鍵だったことだけはよくわかる。オープニングに結末の描かれた映画にそれは似ていると思う。
「もともと「読んだ端からすぐ腐る!」文章を目指して書いたので本望といえば本望なのだが」
もし今回の脱輪さんの文章を表すならこれに尽きる。
腐る前になんとか戻ろうと探ろうとして、もはや私は泥だらけである。それでじゃあ成果をきちんとまとめたのかと聞かれればご覧のとおり、種がこぼれまくって新たな繁みが真夏のようになっているのである。どの穴から這い出てきただろうか。
脱線
『イグジット・スルー・ザ代理満足ギフトショップ』が、どうして「わからないようでわかるようで……」という形態の生地として書かれたのだろう。もしかしたら、コスパ・ニヒリズムの批評をコスパ・ニヒリズム的な様式で書きたかったからではないのだろうかと、勝手に考えている。
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