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Swinging Chandelier:12-最高の日曜日

 捨てる。棄てる。
 とにかく、すてる。

 いつも渡すアカウントに登録された名前、郵便受けに溜まるダイレクトメール、他人の体温。

 いつもみたいに「可愛いね」と言われる。いつもみたいに淡く微笑んでおく。いつもみたいに裾はたくしあげられる。いつもみたいにその手の甲を静かに撫でる。
 あー良かった。昨日眉ティントしておいたからあとで化粧落としても気が楽。あとそれ、リバーレースの下着だから爪引っ掛けないように脱がして。
 トン、と肩から押されてシーツに背中を預ける。頸を口唇が噛んできて、深く息を吸いこんだらビターオレンジにバニラを混ぜたような匂いがする。多分この男がつけているパルファンだ。移香うつりがにしたくないな。いいか、もう裸だし、終わったらどうせシャワーを浴びるんだし。それよりも煙草を吸いたい。大体わたしはいつもわざとのように、煙草を吸う女を嫌がりそうな男ばかりを捕まえるからこんな。
 ざらざら、ぎしぎし、ノイズを殴り倒すほどの感覚でもなく。それでも体液の音がやっと鳴りだしたので安心する。これなら互いに興醒めすることもないし穴も痛くはならない。
 「穴」って、即物的というか容赦のない響きというか。「ワレメ」にしたってそう。やさしさがあまりない。何というか「ちょっと窪んだところ」とかそんな呼び名だったら、もう少しにこにこしていられそうなのに。
「あ、」
 脚をひらけば即物的にそこは埋まる。夢みたいなことを考えても結局穴だな。それも襞つきの。そんなものでしか在れない。
 後ろを向いたら手首ごと腕を引っ張られる。片腕と膝で躯を支えているけれど前後につける動きがかなり強いので肩の腱が少し痛いし、引っ張られているから右の肩甲骨から肋骨にかけての筋肉も攣れた感じがする。左の腰に密着した男の手のひらは汗ばんで、息遣いもそろそろ気忙しい。
 ぱっ、と手が離れたから前側に向き直る。膝がシーツにれて赤くなっていた。男の方にもう余裕はあまりないようで、わたしが伸ばしかけた膝を裏から抱き込むようにして被さってくる。
 男の顔を眺める。整髪料をつけた前髪がほどけてひたいにかかって、わたしはそれを指で頬に流してみる。
 いつもみたいに小さく呻いて男は達した。いつもみたいにわたしはその背中を少し撫でた。いつもみたいに男は「可愛かったよ」と言った。いつもみたいにわたしは淡く微笑んだ。
 いつもみたいに何かを受け取って、それはすぐに捨てるために。
 躯を起こしてお湯を浴びに行った。マスカラとアイシャドウとファンデーションとぬるぬるした体液を洗い流して、肩と膝を湯船でよくほぐした。
 まだパルファンが匂う気がして、男のほうが浴室に向かってからわたしは八階の窓を開け放つ。そうしてベッドの背もたれに体重をかけたまま下を見ていた。
 ぴかぴか、ちかちか。環状線を行く深海魚。発光しながら侵食しあう街。何も着ていない躯に当たる風は強くてすぐに凍えそうになるが、それはたぶん少し気持ちがいい。
 こう、もう少し腰骨を上にずらして足の指から膝をバネのように伸ばして水面へ飛びこんでみたりして、光る小さい群れの中をすり抜けながら見えるもの。深海の底の底にぶち撒けるラズベリージャム。
 そんな下らないことを八階の窓辺で考えた。
 下らなすぎて笑えもしない。
 そんなふうに夜は更けていった。

 夜明けの気配を感じ取ってわたしはベッドを抜け出す。ポーチの中身だけで軽く化粧をし、ハンガーからワンピースを出してきて着替える。男を起こして身支度が終わるのを待つ。
「次はいつ会える?」
「そうね、」
 約束にならない希望を聞き流して、肩を抱いてくる腕をすり抜けて、だから移香にはしたくないのにと思って、代わりに手を握る。
「照れてるの?はは、背伸びしない真黎さんも可愛いね」
 男は笑って、小型犬を撫でるようにわたしの頭を撫でた。
「そう。ありがとう」

 目覚め切っていない街を帰路に着く。まばらな通りにヒールの音が鳴る。
 みちの両脇に積まれた半透明の塊たち。レストラン、香水店、居酒屋、服屋、コーヒーショップ、巨大な繁華街が蠢いた副産物。
 朝の白っぽい陽光は横から少し淡く、喧騒も華やぎもまだ知らぬ顔をした街で袋の内側に始まった腐敗臭の中にもまっすぐ降り注ぐ。わたしはゆっくりとまばたきをする。
 鶏肉の脂身、サテンのリボン、櫛切りの檸檬、サイズ9のタグ、ラテの残った紙カップ、半透明のビニールの中に窮屈そうなそれら。あとは潰されて焼却を待つばかりに横たわる夥しいゴミの群れを見ながら、すこし安心したように滲んでいくものをわたしは感じる。
 コンビニで十二ミリのマルボロを買って東口の喫煙所へ向かう。火をつけながら吸って吐いた煙、取り込んだニコチンに頭の中身が一瞬締まるときに東の陽光がちかりと虹彩をかすめて、これは大変とバッグからスマホを取り出してなんとなく画面をスワイプするが、少しだけ遅かった。
 そうだった。今日は日曜日の朝だ。
 いつかの土曜と日曜。そう「あの人」は背が高くて、よくわたしを抱っこした。土曜日の夜に部屋に行って少し飲みながら好きなバンドの曲で部屋をいっぱいにして、あの人はわたしの腰に回した腕を持ち上げて、抱っこした。目線が同じ高さになった。
「小さいな、お前」
 二人でおでこをくっつけて、あの時は何を飲んでいたっけな。
「わたしずっと小さいままの方がいい?」
 何を飲んでも大体、一緒にいたあの頃はおいしかった。
「いーや、」
 口紅を塗ったままの口唇に構わず、あの人は重ねた。
「いっぱい食べて、大きくなりなよ」
 あの人は笑った。わたしも笑った。抱きしめた背中からも、アニスの匂いがした。
「大好き」
 わたしは嬉しくて耳朶を齧った。
 わたしは甘えることができた。何度も抱きつくことができた。夜じゅうきれいな声で啼いて、朝になったらちゃんと目が覚めていた。多分それは、幸せだった。
 日曜日の朝は甘えたまま、安心して笑っていた。
 東の窓から差し込む光がダブルガーゼのシーツに注ぐあの寝室。向かい合ったわたしの寝癖を、あの人は手櫛で梳いた。
 そんな時あの人は、わたしの向こうを見ていた。それは多分、未来とか、この先とか、そういう意味だった。そしてその頃わたしは、その言葉の本当の意味を知らなかった。
 半透明に白いゴミ袋の塊が重なる街をまぶたの裏に置き去りにして、薄くを開いて両手を上げながら歩く。そんなものを一度知覚に描いて、それから灰皿に煙草を押し付けて口唇だけわたしは嗤った。
 見上げた東の空はビルの鋭角にぎざぎざと額装されて、白んだ陽光の中で遠慮がちに見えなくもない。その一枚をスマホで撮ってわたしは、キャプションをつけずにSNSへほうった。

 動き出した電車の座席に揺られながら、いつものアカウントに登録された男の連絡先をブロックする。くだらないルーチンの一センテンスが終了。
 日曜のまだ早い時間の下り線は人が少なくて、南中前の太陽はぼんやりとあたたかい。良かった、午前中に家へ帰れる。ホテルでは極力眠り込まないようにしているから、帰ったらまたお湯を浴びて午後まで少し眠ろう。起きたら少し散歩して紅茶を飲んで、新しく配信されたBBCのドラマを見ながら夕食を摂って、それで眠ってまた明日仕事に行けばいい。
 郵便受けの中で冷たく重なっていた紙類をさらって家のドアを開ける。エアコンの室外機の洗浄業者、不良品買取のお知らせ、コスメショップのシーズンギフトDM、新装開業の美容外科、全てを片手でぐしゃりと握りつぶしてゴミ箱に捨てる。
 脱いだワンピースを洗濯カゴに投げて下着類をネットに入れて、湯船に浸かる。クローゼットから出した柔らかい部屋着とゆるやかにそよぐレースカーテンに微睡みながら、窓辺に座って煙草に火をつける。
 スマホが振動して、いつものアカウントにメッセージが入る。
 二、三ヶ月引き延ばしている男だ。確か大学の同期の結婚式で知り合った、新郎側の友人。数回食事をしながら、顔に「ヤリたい」と書いてあるのが面白くてつい引き延ばしている。SNSを覗く限り向こうには数人彼女候補にしている女がいるっぽい、ということまではわたしにもなんとなくわかる。
 「新宿でご飯?別に良いけど」という内容を、もう少し口当たりの良い文章に直してから空いている日程を添えて送信する。
 明日もその先も、あとほんの少しの、未来とも言えないリアルな時間の中にいればとりあえずやることはたくさんあって、ちゃんと浪費してちゃんと捨てることができる。正気に引き戻されることもきっと少ない。

@ryou_highper_enough イイね1件

 バナーが光る。スマホの画面をさぐる指はぱたりと止まる。
 オスロはいま何時なの?
 午後の日差しが来る前にカーテンを引いて、わたしは毛布の中で目を閉じた。


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