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人工股関節置換手術のあとさき15 モノクロの世界

前回、術後数日間ごはんが食べられなくなったことを書いたが、
この期間に、そのことと並行して以下のようなことが起きた。
(これは、とても個人的なことで、一般的なことではないとは思うが)
わたしにとってはとても興味深いことなので記録として残しておくことにする)


寝たきりから、少しずつ管が外れていき、思うように動かせなかった身体が少しずつ回復していき、少し余裕が出てきた。
やっとスマホに手を伸ばす余裕も出てきた。

スマホを手にとる。

仲良しのお友だちから何通もLINEが入っている。
気持ちは嬉しくありがたいが、返事する気が起きてこない。
スタンプ1個返すのがやっとだし、それすら大変なエネルギーが要る。
いつもなら必ず返事を返すわたしには珍しく既読スルーもした。
どう思われようがどうでもよかった。

Instagramを開けてみる。
今までなら、フォローしている方のページを見て、いいね、を押してからもストーリーズやリール動画を見始めると飽きずにいつまでも見ていたりするのだが、すぐに閉じた。
全く興味が湧いてこない。
以前は何が楽しくてあんなに中毒のように見ていたのだろうと思う。
それはどこか遠い世界のことのように思える。
YouTubeもFacebookもXも同様だ。

わたしは早々にスマホを手放した。

それだけではない。
時間ができたら読もうと張り切って持ち込んでいた本も読む気にならない。
あんなに大好きだった編み物も、少しだけ編んでみたけどなんかつまらない。すぐやめた。

いったいこれはなんだろう〜?
何もしたくない。
これからたっぷり自由時間がやってくるというのに。


手術前にわたしの好きだったキラキラと輝くような世界、
植物の手入れや手仕事や読書や、お友だちとのなんということもない交流、
わたしの得意な、日々の暮らしの中に潜む楽しみや美しさを見つけて 歓ぶこと。
そんな世界が急速に色褪せ、わたしの前から退いていく。
いや、実はわたしの方から後ずさりしていったのかもしれない。

かといって、今までと違う何かに興味が出てきたわけでもない。

わたしは、すべてのことに興味を持てなくなっていた。
そう食べることもそのうちのひとつだったのだろう。

これは我が家の食卓


なんか変だな。
なんかおかしい。

モノクロの世界の中でわたしは感じていた。

もしかして、
いま、わたしのすべてのエネルギーが、わたしの身体の修復に全集中しているのではないか?
意識もエネルギーである。

あらゆる外界からわたしを遠ざけ、
ただひたすらにわたしの身体の修復と回復に集中しようとしている。

身体にメスを入れ、新しくわたしの身体の一部として仲間入りをすることになった人工股関節を、わたしの身体として認め、受け入れ、これからともにわたしを支えていくために、いま全力で調整しているのではないか?

そんなふうに思うと、術後にごはんが食べられなくなったことも納得がいく。
食べ物を食べると、栄養として身体に取り入れるまでに消化吸収という過程を経なければならない。そこに使われるエネルギーすらもったいないのでは?
栄養点滴でダイレクトにとった方が今のわたしには効率的なのかも。
あんなに不味く感じられたのは身体からの「食べるな!」「そんなことをしている場合ではない」のサインだったのではないか?

手術は6月の半ばに行われた。
ありがたいことに、それを伝えた仲の良い友人たちからは、手術の前に遊ぼう!というお誘いをたくさんいただいた。
わたしは、5月いっぱいはそれに応えて全力で遊んだ。
けれども6月のお誘いは、どんなに仲良しのお友だちからのお誘いであってもお断りした。
なんとなくそんな気にならなかったのだ。

今思うとあのころから、わたしはわたしのエネルギーをひたすらわたしの内側に集めようとしていたのかもしれない。

この一連の記事が、若干の時差があるのもそのためだ。
わたしが何をする気も起きなかったとき、もちろん文章を考えたり文字を打つことなどできるはずもなかった。

5月の旅


そしていま、
わたしはこの文章を書いている。結構な連作になっている。

そう、
わたしがモノクロの世界から総天然色の世界に帰ってくるのにはそれほど時間はかからなかった。

数日間のブランクの後、わたしはまたスマホを手にする。
ポツポツとLINEのメッセージに返信する。
編み物も初めたし、本も読み始めた。

それと時を同じくしてごはんが食べられるようになったし、ごはんがおいしく感じられるようになった。

ほんの数日間でわたしの身体のエネルギー的調整が完了したんだと思う。
(ハチミツは確かに何かの役割を果たしてくれた)

猫や野生の動物は、体調が悪くなると、ひとり群から離れて、地面にうずくまってただひたすらじっとしているという。その間何も口にしない。

動物たちはそうやって自分のエネルギーを身体の回復に集中させているんだと、その時わかった。

術後、わたしが陥った状態もそれとほぼ同じだったのだろう。
人間の世界から抜け出て、動物的本能でわたしはわたしに全集中していた。
これはきっと間違っていない。

(あなたにもこんな経験ってありますか?)

【追記】
モノクロの世界にいたとき、よく不思議な夢を見た。(夢はそんなものかもしれないが)

日頃、園芸系のYouTubeをよく見ていたせいか、
それはYouTubeの番組内という設定だったようにも思うが、番組の枠を超えていた。

それはそれは美しい草花が咲き乱れている画面。
花たちが咲いているところを真上から見ている。
何層にも折り重なるように極彩色の草花が、空中でキラキラしながら回っていたり、揺れていたり。
ときにそれは水の中のように見えたり。。。
ものすごく奥行きのある画面で、
わたしは、そのこの世のものとは思えない世界に、ただただうっとりと立ちすくむ、といった感じだった。

この世のものとは思えない美しさは、まさにこの世の現実世界ではありえない、そしてまた創り得ないものだったと、いま振り返って思う。

そんな画像を、わたしは何度も見たし、見たいと思えばすぐにそこにいくことができた!

あの画像を再現できたら、きっとわたしは映像アーティストになれると思う。

でも、いままたあの画像を見たいと思ってももう2度と見れないことを、わたしはどこかでわかっている。

あれは、
わたしが動物的本能の世界にいたから見えたイメージなのだ。

すべての外界から遠ざかり、ただひたすらわたしの内面に集中して身体(細胞)の修復と調整をしているとき、動物的本能の世界にわたしはいた。

あのとき、わたしの現実は色を失って見えていたが、対照的に夢の中では極彩色の美しい世界が広がっていた。

だとしたら、とわたしは考える。

動物たちの住んでいる世界は、もしかしたらあのような極彩色のえも言われぬ美しい世界なのかもしれない。

そして、 実はわたしの内側にもあのような世界がいつも広がっているのかもしれない。

人間としてのわたしは、あまりに外界を意識するあまり、内側に目を向けることを忘れているのかもしれない。





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