今日は『節分』かぁ・・。
今年は大河ドラマの「麒麟がくる」をよく見た。
第39「本願寺を叩け」の回で明智光秀の正室、煕子が病気になった際、庭から鬼達が現れ、やがて床に伏せる煕子の元へやってこようと家に上がってくる。それを家来が弓を引き、そのビュンビュンと鳴る音で鬼を追い払う。そんなシーンがあった。
これが「追儺(ついな)」(「鬼遣(おにやらい)」とも言う。)なのかな?と見ていた。
煕子に取り憑く病魔を追い払おうとしたものだ。
今日は節分、豆を撒いて鬼を払う。追儺の弓音によるまじないが、今では「豆」に代わった。
魔を滅する『魔滅(まめ)』の言葉の音から、やがて『豆』が採用されるようになったと聞く。
追儺の風習は元々中国から来た。初めは中国由来の「大儺(たいな、おおな)」と呼ばれ、立春の前日(大晦日)に儺人(なじん)や方相氏(ほうそうし)等が疫鬼を桃と葦で作った弓と矢で追い払ったそうだ。やがて儺(鬼)を追うとして追儺と呼ばれたと言う。
面白いのは大儺や追儺と呼ばれていた頃には鬼は姿を表してはいなかった。能登のアエノコトのように見えない相手に神事は行われていた。
やがて鬼は「見える化」されてきた。そうなると鬼を追い払う役だった「儺人」や「方相氏」が鬼となって追われる側になったそうだ。
幼稚園などで演じられる「鬼は外」の行事。あの鬼達は昔、見えない鬼を追う役だったのだ。逆転の成れの果てである。
追儺はもともと
「神役が疫病を司る目に見えない鬼を追い払う」
という設定でしたが、平安時代末には
「実際の鬼役を追い出す」という現在の節分に近い形
になったと言われています。
鬼を追い払うのには、豆ではなく桃の弓と葦の矢
を使っていました。
(Tripα(トリパ)|旅のプロがお届けする旅行に
役立つ情報)より
これはヤポンスキー小林さんの今日のブログに載せられていたもの。↓
役割が入れ替わっても大丈夫って、ヤポンスキー小林さんの言うとおりなのだと思う。
参考
平安神宮節分祭「大儺乃儀」
近年、こうであったろうと復元されたもの。後半部は「福は内、鬼は外」の現代の節分も併せて行われる。
『おにやろう』と叫ぶ姿から、見えないモノに立ち向かう時代の姿を彷彿とするのは僕だけだろうか。
「福は内、鬼は外」と言うセリフになったのはいつ頃なのだろう?
いつから「福は内」のセリフが加わったのだろう?
(見えない鬼に立ち向かおうとする姿勢の方が直接的で人間味を感じるのだが・・)
人は、普段はなかなか表に出さないのに
何かの縁でふと出すものがあります。
これを「隠おん」といって、
後にこれが「鬼おに」に変わったのでしょう。
(臨黄ネットより)
wikipedia「節分」
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%80%E5%88%86
最後に
疫病(今で言う伝染病)が見えない頃の鬼の主だったものだろう。新コロナに対しては、為政者達はどうも見えているようで怖れを感じていないようだ。
鬼は外のかけ声ばかり。
多分、見えてると思い込んで、舐めてんだろうなぁ。
それって、目をつぶっているのかも。
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