絵が描ける話からベンチの話へ
絵が描けると描けないの間をじっと見る。丸を描ける私は絵が描ける。丸が書けるしカボチャも描けるし、もっとグチャグチャっとしたものも描ける。絵が描けてる。絵が描けないという人は何を言っているのだ。絵ってそういうもの。正解がないもの。でも絵が描けないと言う人の基準からすると私も描けてないことになる。描けてるし、絵で伝えたいことがあったらなんとかして工夫するし、不足はない。絵を描きたくなったら描くし、色を塗りたくなったら塗るし、自由にやってる。絵が上手い人を見るとすごいって思うけど、私は私の絵を描く以外にないって思う。写実的な絵を見たら一体この人の脳はどうなってるんだって信じられない気持ちになるけど、誰だって積み重ねて今がある、私も積み重ねていくだけだと思う。元は同じ人間だったけど、枝分かれしてなんかすごい人になるのだから人間はすごい。ちょっとずつだからわかりにくいけど毎日重なって行ってる。それはなんでもいい。絵でも文章でも音楽でも仕事での立ち振る舞いでも、なんでもいいから世界にエントロピー増やすような何かを繰り返してく。この気持ちで文章も書いてる。
拝啓、ジョンレノン、僕もあなたも大して変わりはしない。そんな気持ちで世界を見ていたい。どんな人でも僕と大差はないのさ
この歌詞の見方も十年前とはだいぶ変わった。十年前は本当に僕もあなたも大して変わりはしないと思ってた。全然違うのに。みんな積み重ねて違う人になってる。
どこで分かれるのか。頭の中からもうすでに分かれている。藤井八段の神様の話。将棋の神様がいるとしたら何を願いますか。他の人は勝利を願った。藤井八段は神様と試合がしたいと願った。いつも自然と考えてること、自然と願ってることから現実が変わるんだなと思ったエピソード。
だから私は頭の中を変える。寝る前に考えることを変える。そういうことを心がけてる。社会活動家になって社会を良くしようというより、私自身が幸せになればいいと思っているが、みんなが幸せになるために私にできることがあるならそれは何か、考えてみたりする。
街のベンチに仕切りがあるのが嫌だ。不寛容な排除ベンチ。あのベンチが私に何か危害を加えたわけではない。だけど新しい施設ができてそこにベンチが現れるたびに、あのベンチも排除ベンチかと残念な気持ちになる。もう作ってしまったものはしょうがない(あの仕切りは簡単に外せるらしいが)でも今から作るものについても、お金をかけてわざわざ仕切りをつけるのかと。
もう一度言う、あのベンチが私に何か危害を加えたわけではない。だけど私はあのベンチが嫌いだ。ベンチの仕切りを失くしたい。みんなが幸せになるというよりは私の自己満足の気持ち。あのベンチ仕切りはただのコの字に曲げた鉄の棒ではなく、背景にあるのは、管理者の、めんどくさいから仕切りつけとけ、という人間に対する雑な扱いそのものだ。ベンチに仕切りをつけようって最初に言い出した人も、公園とかの管理をしてる人がベンチで寝てる人が退かなくて困ってたから、それを解決するのに手っ取り早い方法としていいことを思いついた!って得意げな気持ちだったかもしれん。仕切りをつける案が出て自分とは関係ないから誰も反対しなかったんだ。審議すらなかったかも。そして仕事だと忙しいし、その場に私がいたとしても反対の意を表さないのだろう。だとしてもベンチの仕切りを失くしたい。
めんどくさいから、ハァ、私もよくその言葉使うなぁ。めんどくさい、って時に大変な事態を引き起こすのかも。自然に思ってることがバタフライ効果でどこに影響するのかわからない。でも、めんどくさいと全て悪とするってなるとあまりに広げすぎ、それは却って考えてなすぎ。目の前のめんどくさいはめんどくさいと評価します。これはこれ、それはそれ。
〜神保町吉本YouTubeチャンネルの話〜
吉野のイマジナリー妹を絵がうまい人に描いてもらおうという企画で、吉野が感涙してたけど、あれってどういう感情なのか。わかってもらえてうれしい、妹がほしくてたまらないからイマジナリーに分裂して、でもいないのは自分でもわかっていて、いつも自分の中にしかなくて。誰かが存在しているということは、ほかの人とその誰かの話ができるということなのかもしれない。他の人が妹の話を真剣にしたから、吉野の妹はあの瞬間存在したってこと、かな。病気だとか気持ち悪いとか言われてももう吉野だからってそれすらキャラにしてしまって。なんてこと。ニュータイプ。人に否定されたら、委縮して消えたくなる。吉野だって消えたくなったはず。でも消えなかった。この差はなんだろう。コンプレックスや心の傷が関係してくるのかな。コンプレックスをエネルギーに、と言うと気持ちわるくてちゃっちい何かになる。気持ち悪くてちゃっちい何かを見ないようにして生きていく。
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